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    元スレ咲「誰よりも強く。それが、私が麻雀をする理由だよ」

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    901 :

    このスレも埋まりそうやな

    903 :

    ペッコリン使う人何人か居るけど安価スレの人かな

    904 :

    なんと返すべきだろう。この場で話すのは二人きりの時とは勝手が違う。

    答えあぐねて、ただネリーと目を合わせる咲の傍ら、真っ先に反応したのはよく知らない人たちの一人だった。

    「んん? なんかワケアリな感じ?」

    金髪をオールバックにした人だ。彼は他の仲間らしき人たちと顔を見合わせて首を捻る。

    「……ミヤガワにはムリを言ってついてきてもらったの。わたしと同じで、プライベートを詮索するのはタブー」

    そんな彼らに向かって、ネリーは真剣な顔をして釘を差すように言う。ふざけているときくらいにしか変わらない一人称が変化していて、素性は隠したい考えをうかがわせた。

    「わーかってますよぉ~! そういうのは最初にきっちりきっかり織り込み済みなんで! 心配はご無用っすよぉ」

    対する彼らは、軽薄そうな口調だが基本的な考えや認識は一致しているのか、金髪の彼に賛同するような素振り――何度か肯いたり――を見せる。

    咲はそんな彼らをそれとなく注意して眺めながら、一歩、ネリーのそばに寄る。

    男性に対する特別な恐怖があったりするわけではない。ただ、どうしても拭えない一抹の不安が胸に残った。

    気のせいだろうか。むやみに人を疑うのはよくない。男性との付き合いの希薄さ故にやはり猜疑したり警戒する心が強くなっているのかな。

    そんなことを考えていると。

    905 = 265 :

    「あっ、それで、紹介がおわったとこで本題に入りたいんすけど」

    思い出したように金髪の人がそう切り出して、マウンテンパーカーの懐から何か紙束のようなものを取り出した。

    「潜り込んでいろいろ探ってみたんすけど、ダメっすね。今んとこ手がかりらしいもんは見つからないっすわ」

    取り出されたのは、果たして紙の束だった。A4サイズほどの紙。

    金髪の彼は、紙束を差しだすように突き出しながらネリーに歩み寄っていく。渡すつもりなのだろう。実際、目の前まで来て止まった彼の手からネリーの手に渡った。

    「ふうん……望み薄か」

    書面に目を落としながら、ネリーがつぶやく。少し冷めた感じだ。読むのに集中しているからだろうか。
    今どういったやりとりをしているのか咲にはよくわからないが、今まで得た情報を統合してみるに、失せもの探しに関係する書類か何かをやりとりしているのだろう。イメージは探偵が調査依頼者に渡す書類だ。

    「あっ、これはね、街の構造に詳しいこの人たちに探偵みたいなことしてもらってるの」

    そこで、ネリーがふとこちらを向いて、説明を加える。いつもの親しげな口調だ。

    「探偵……?」

    「もちろん推理小説に出てくるようなのじゃなくてね」

    「そう、なんだ?」

    咲の頭に浮かんだミステリー作品の数々に登場する事件の呼び水みたいな人たちのイメージは即座に棄却された。ひと安心。

    とりあえずわかるのは、自分に出番、というか力になるのは難しそうだということ。

    (占いすれば役に立つかもしれないけど……)

    占断する対象がわからないと厳しい。対象を具体的に絞ると自分ができるような占いは精度が増すように思うから対象をはっきりさせたい。

    (でも、これは……)

    ただ占いについて明かすことが躊躇われる。協力を惜しむ、つもりはないのだが、これについては家族以外に詳しく明かさない方がいい、という古い言いつけがある。その言いつけの内実は、元々は柔らかく諭す程度のものだったが、今となっては咲にとってその言いつけは絶対で、より厳しい意味合いに捉えられていた。

    906 = 265 :

    咲はその場で考え込む。

    「うーん……」

    でも、どうにかして力になりたい。まず、探偵稼業的な失せもの探しであれば必然的に力を発揮できる場も限られていて、そして自分はといえば身体能力はへなちょこだし、姉のように頭脳が明晰というわけでもないし……。

    ――ただでさえ、手紙の手伝い、とくに作法の事なんかじゃちゃんと力になれなかったし。

    「どうしたのミヤガワ?」

    「え?」

    地理に明るくもなければ物探しのノウハウもないし、とも思ったところで、ネリーから声をかけられて顔を上げる。

    我に返って周りをみてみると、男の人たちの視線も集中している。

    「……すっごい悩んでたみたいだけど、何かあった?」

    なんだか恥ずかしくなった。顔が赤くなっているかもしれない。

    「あはは……ええと何か手伝えそうなことあるかなって」

    ごまかすように笑って、その場をとり繕う。

    きちんと成功していたかは定かではないが、

    「……ミヤガワには、ついてきてもらっただけだから。できないことはしなくていいし、しようとしなくていいよ」

    ネリーはよそを向いて思案げに、申し出には興味なさそうに言った。

    いつもより素っ気ないような。少し寂しい。ただ、余計な事をして台なしにしたらいけないのはわかる。自分が頼まれたのはついてくることだけなのだ。

    咲も気に病むような素振りは見せずに、

    「そうだね。大人しくしてる」

    頭の中からひっぱりだしてきたクールな受け答えで会話をしめて、そっとその場に溶け込んでみる。気分としては熱心な黒子。

    ――でもやっぱり、何かしてあげられないかなぁ……。

    未練がましい本音は怜悧を意識した貌の下に押し込んで、やりとりの行方を見守る。基本的にネリーのことを注視する。

    視界にあまり映らない金髪の青年や他の人たち、彼らの注目がこちらを向いていたような気もしたが、金髪の青年は話題を切り出す意思を示すように軽く咳払いすると、

    907 = 265 :

    「そんで、今日新しく伝えてもらった件なんすけどね」

    ネリーを見て話を始めた。

    「サングラスかけた黒ずくめの外人……でしたっけ。人探しになってくるとまた勝手が違うんすよね」

    どきっとする。今日、それもついさっき遭った被害の話ではないだろうか。

    「落とし物……失せもの? の方は質屋なんかで換金されたルート洗ったり、名の知れたコレクターとか、めぼしい人らから誰がどんなものを持ってるか、最近何を手に入れたか、とか聞き出したりってのが今俺らがしてることなんすけど」

    「人探しは……グループの中で得意とする奴らが他にいるんで、そっち頼んだ方がいいかもしれないっすね」

    彼の説明と助言にネリーが答える。

    「紹介してもらえるの?」

    「もちろん。身内紹介するだけなんでタダでだいじょぶっすよ」

    「あははっ、いいね。タダは好きだな」

    ネリーと金髪の青年、お互い陽気に話して話が弾んでいる。しかつめらしさ、辛気臭さなどはなく、気心の知れた友人同士が雑談するような雰囲気。

    「そんじゃ、報告はこんなとこで」

    そして金髪の青年は時分を確認するように空を仰ぐと、

    「日暮れまでまだあるし、昼間にできることをやってきますんでぇ~」

    ネリーに視線を戻して、報告の時より砕けた話し方でそう口にした。

    「わかった。それじゃこっちも帰るかな」

    「あっ、最後に一ついいすかエルティさん」

    ここで初めて、ネリーの偽名が彼らの口から飛び出る。事前に聞かされていたからそうとわかったが、でなければ馴染みがなくてわからない。

    「……うん?」

    「そっちの……宮川サン? だっけ。その子、今日になって連れてきたのは何か意味が?」

    話題の矛先が急に向いてびっくりした。報告の時に戻ったような真剣味のある表情で、金髪の青年が慎重そうに問いかける。仲間らしき他の三人は静観している。

    908 = 265 :

    「うーん、別に。けっこうなかよしだからね。たまたま一緒に来る機会があったんだ」

    ネリーは、あまり考える様子を見せずに言う。あらかじめ考えを決めていたようにそつがない。

    「エルティさんが誘ったんすか?」

    「この子から。この子心配性なの!」

    屈託なさそうな笑顔でネリーが明かす。でも話が違った。誘ったのはネリーだったはず。

    「へええ~、親切な子っすねぇ」

    感心したとばかりに金髪の青年が目を丸くして返す。

    「ふーん、腹が黒いってわけじゃねーのか」

    「おいおい、腹が黒い方がいいみたいな言い草になってる。あと失礼な」

    見ていたうちの男二人がこちらを見ずに話をする。後の一人は見向きもせず黙っている。

    「うん、じゃあ~それだけ聞かせてもらったら満足なんで! 今の、プライベートの詮索になってなかったすかね?」

    「これくらいなら。基準はこっちが決めるけど」

    「なるほど」

    「もういいの?」

    「オッケーっす。いや、すんませんね」

    ネリーが気にするなと伝えるようにひらひらと手を振って言葉を返すのをやめる。会話をやめる意思表示みたいなものだろう。

    それから、金髪の青年を含めた男たちは残るネリーと咲にそれぞれ会釈などをして河川敷の斜面を登っていった。

    あとには二人が残る。

    「じゃ、帰ろっか!」

    「うん」

    咲は迷いなく応えた。

    909 = 265 :



    帰り道、ネリーが言った。

    「めんどうなことさせてごめんね」

    「気にしないで。必要なことなんだよね」

    電車の座席で横に腰かけたネリーに顔を向けて返す。

    地下鉄を乗り継いでやたらと遠回りしながら二人で帰路についていた。気分は迂回している感じ。

    「……えっとね、どこに住んでるかとか、あの人たちにしられたくないから」

    数秒ほど逡巡した素振りの末にネリーが話す。

    「そうなんだ。たしかにあんまりしられちゃうのは恐いね」

    「おっ、一応用心するって考えはあるんだ」

    「馬鹿にしてる?」

    いかにもからかう感じにいやらしく笑ったネリーにくすっと返す。

    夕暮れ時の地下鉄は沢山の乗客を乗せていた。女性専用車両に乗れたので混雑ぶりを味わわずに済んでいる。二人そろって、シートの上だ。

    部活は……もうだめだろう。学校に帰って着替えたら顔を出しておきたいが。

    「ふー、結局最後まで付き合わせちゃってごめんね」

    「最後?」

    「んー」

    ネリーが唸り声を上げる。言葉を選んでいるのだろうか。

    「時間、もうおわりがけだし」

    「……しょうがない」

    消化しきれないもやもやは残る。ただ、注意を促すネリーの指示を無視するわけにもいかない。ネリーにも考えがあるはずで、むしろこちらを思いやってくれたようにも思う。

    日の高い時間から、河川敷の事があって、今の夕暮れ時になるまで街の表を回ったり時間を潰した。その間に、コインロッカーに入れてあった臨海の制服を回収したりもした。

    尾行か何かを警戒するようだ。そんな印象を意識の片隅に持ちながら話す。

    「気分転換になったから」

    「かえって能率があがるかもしれない?」

    言葉の先を予期したような返し。無言で首肯する。

    それからネリーに誘導されるまま地下鉄を降り、学校に戻る。

    部活はもう終わりかかっていて、ネリーと共に入っていくと、

    「遅い」

    こちらに向けたのだろう、智葉から言葉少なに叱られる。大半の部員からもいい目では見られない。特別扱いを受けている身で熱心に取り組まないのだから不愉快に感じられても文句なんて言えない。少なくとも、選んで臨海に来たのだからその視線を受け入れるのが当たり前だと思った。

    910 = 265 :



    部活後、マンションにネリーと一緒に帰りそれぞれの部屋の前で別れる。今日は上がっていかないようだ。そういった話も聞いていない。

    生活上の雑事を簡単に済ませて今日の分の勉強を終わらせる。

    報告するよう言われていた勉強の進捗を伝えるため、母に電話する。

    報告のついでに今日あったことをかいつまんで話そうと思った。ネリーの事情には極力触れないように、人に付き添って部活を抜けてしまったというような言い方で簡潔に伝えよう。

    寝室のベッドに腰かけながら、呼び出し音の鳴る端末を耳に当てて、待っている間ぼうっと虚空に視線を浮かべていると、まもなくして通話が繋がったので手短に話す。立場からしても忙しいというのは織り込み済みだから、余分な話は削ることにした。

    しかし進捗の報告――合わせて、疑問に思ったところを打ち明ける――が淡々と終わり、

    「あと……あっ」

    いざ話そうかというところで問題が浮上した。

    「どうしたの?」

    「えっと、話があったんだけどちょっと問題があって」

    ネリーのプライベートに関することをおいそれと口にできない。それは当然だが、『人に付き添って部活を抜けた』と言っても付き添った相手は一人しかいない。なら厳密に言えば間接的に明かしているようなものではないだろうか。

    単に『部活を抜けた』といっても『なぜ?』という話になる。そうすると母の手前、娘の自分が理由も言わないわけにもいかない。母は出資者を束ねるような立場なのだ。

    「……構わない。誰にも話すな、ということなら話さない。言ってみて」

    「あ、うん……」

    言い淀む。ネリーにも話していいか確認していないのだ。約束するような母の言葉は無条件に信じているが、とはいえ、それで確認もせず話していいことにはならない。

    「……どうしたの?」

    「うん……その、ごめんね。話していいかわからないから、また今度でいい?」

    明日、ネリーに話してもいいか確認しよう。今からは……気が引ける。一日街を回ったりして疲れてるだろうし。

    返事をすると、暫く沈黙があった。

    911 = 265 :

    「……わかった。言葉が少し抜けているように思うけど、大体の意味は汲みとれた。後日、話せるときに説明してくれればいい」

    「ありがとう。また電話しても大丈夫?」

    「時間は空けておく」

    通話が切れた。

    「……ふう」

    耳から端末を離してベッドに寝転がる。やっぱり、緊張を強いられる。

    「お風呂入ろっと」

    入浴して、いつも通りの時間に就寝しようとする。

    「あっ、きなこモチ」

    直前、一人では食べきるのに苦労するほどの貰い物の存在がふと思い浮かぶ。

    眠る前に食べるのは抵抗がないでもないが、合った弁当を作るのはなかなか骨が折れそうだし、ダンボールに大量の在庫があるので腐らせたりする前に食べよう。

    思い立ち、目当てのものをとってきてリビングのダイニングテーブルに用意する。そして食べ進めていく。

    「けっこうおいしい……」

    今度、ネリーにも勧めてみようか。一緒に食べられたらもっと美味しくなりそうだ。

    ーーただ。

    「っ、ごほっ、ごっほ!」

    よくむせる。むせずに食べるコツを掴むのはなかなか難しそうだった。

    912 = 265 :

    ○▼


    わたしの名前は宮永咲。小学四年生の女の子です。

    わたしには夢があります。それは、みんなが悲しまないようにすることです。







    長野で暮らしている家から飛び出して、電車を乗り継いで、乗り継いで、乗り継いで、駅員さんに呼び止められそうになって、逃げて、乗り継いで、わたしは東京の街にやってきました。

    東京の街は喧騒に包まれています。たくさんの人で、あふれかえっています。

    わたしは人がたくさんいる通りを歩いて人とぶつからないよう苦戦しながら、この街にきた理由を考えます。

    おねえちゃんと、仲直りがしたい。

    『私にはもう、咲のことがわからない』

    そう言って、おねえちゃんはわたしの元を去ってしまった。

    麻雀。プラマイゼロ。

    わたしはやってはならないことを、大好きなおねえちゃんに、してしまった。

    それだけはやってはならなかったんだと思う。

    けど、わからない。麻雀は点数を競うゲームだから、勝っても負けてもいないようにすれば落ち込まないですむのに。悲しまなくてもいいのに。

    なんで、おねえちゃんは怒ってしまったんだろう。

    なんで、おねえちゃんは泣きそうな顔をしたんだろう。

    わたしには……わからない。

    入り組んだ道には入らないよう注意しながら歩いていると、やがて景色が変わります。

    同じ表通りでも、ここは違ってみえます。

    たくさん、たくさん人がいて、にぎやかな雰囲気は変わらないように思いますが、いる人が違ってみえます。

    なんだか違う宝石みたいです。この街はたくさんの宝石が詰まった宝石箱です。

    違ってみえる人たちの顔を通りすがる際、ちらりと覗きます。あまり気をとられていてはいけないので、ちょっとだけにしておきます。

    おねえちゃんの家にいかなければなりません。おねえちゃんに会いにいかなければなりません。

    あまり時間をかけていたら連れ戻されてしまうかもしれません。お父さんはお母さんよりわたしを見つけるのが下手ですが、お母さんに連絡されたらきっとすぐに見つかってしまいます。いや、お母さんに会えたらおねえちゃんにも会えるかもしれないけど、会わせてもらえないかもしれないのでやっぱり自分で会いにいきます。

    いっぱい歩きました。いっぱい景色が変わりました。

    おねえちゃんの家が見えてきました。ここがおねえちゃんの家だということは知っています。

    呼び鈴を鳴らします。まだ日が高くて学校にいくような時間だけど、日曜日だから家にいたら会えます。

    913 = 265 :

    実は、家にいることは知っています。来る前にあらかじめ占いをしました。

    お母さんがいないことも知っています。わたしがこの家に着いたとき、おねえちゃんはこの家にひとりでいると決まっているのです。

    会える瞬間を心待ちにしながら待っていると、玄関についたインターフォンの向こうからくぐもった声が聞こえてきました。

    「……咲、なの?」

    インターフォンの向こうについているモニターか何かで察したのでしょう。カメラがついていそうなところに顔を近づけてみます。

    「みえるかな? わたしだよ」

    「本当に、咲?」

    「わたしはずっとわたしだよ?」

    考え込むような沈黙がありました。少し、不安になります。わたしは本当のことしか言っていないつもりです。

    それから……考えるのが、億劫になったので結果だけ伝えます。おねえちゃんはわたしに会ってくれませんでした。お母さんを呼ぶから、そこで待っていてと言われました。

    どうして、会ってもくれないの。

    わたしはその場から逃げ出しました。こんなことならおねえちゃんがわたしと会ってくれるという未来が出るまで、占っておけばよかった。

    逃げて、逃げて、逃げて、ろくすっぽ周囲も見ていられず街を駆け抜けていく。その間に景色はめまぐるしく変わります。

    どのくらい走ったでしょう。息切れするほど走りましたが、元々体力に自信がありません。気分とは裏腹に大した距離は移動していなさそうだと思いながら、歩道の隅に立って息を整えます。苦しい。

    涙がこぼれてきます。頬に涙が伝って、熱を持ったように顔が熱い。鼻がつんとする。

    情けない泣き顔を周りにみせたくなくて、頭を低くして腕で隠そうとするけど、それでも道ゆく人から視線を感じて、嫌な気持ちになる……せめて泣き声はあげません。みっともないのはだめです。直さないと……。

    でも、しゃくりあげるような声はどうしても漏れる。頭の中に焦りが募っていきます。同時に、悲しくてたまりませんでした。

    914 = 265 :

    どうして、会ってもくれないんだろう。この前、電話してきてくれて、いっぱい、いっぱい話して、大切なことを教えてくれたのに。

    心配してくれてるんだと思った。だから、会いにいけばきっと会ってくれるって、そう思ってたのに。

    その場に崩れ落ちて、わんわんと泣き出したくなります。でも、きゅっと唇を噛みしめて、これ以上涙を流そうとするのをこらえました。

    わたしはつよくならないといけません。そうしないと、親族の人たちにも笑われてしまいます。ばかにされるのもつらいけど、そのせいで家族までばかにされるのは許せません。

    ――ちゃんはもういなくて、でも――ちゃんは言っていました。家族に手を伸ばすことをあきらめないで。その言葉がわたしの支えです。

    「あの、どうして泣いてるんですか?」

    その時、不意に声がかかりました。

    「え?」

    わたしは伏せていた顔をあげました。

    「病院の前でそんな泣いていたら気になります……どこか、けがをしているんですか?」

    そこには、白い女の子がいました。

    白いワンピースを着た女の子がいました。

    真っ白な病院を背にした女の子が心配そうに顔を曇らせます。

    「ううん……あっ、いいえ……どこも、けがはしてません」

    言葉遣いを間違えかけて、慌てて口調を変えます。

    泣いていたせいでうまく舌が回ってくれなくて、途切れ途切れになってしまいましたが、女の子は気にする様子もなくうっすら笑うと、

    「そうでしたか……なら、ひとまずよかった」

    安心したようにそんなことを言います。

    その姿をまじまじと眺めていると、

    915 = 265 :

    「その本……」

    左のたなごころに握られた一冊の本に目が止まります。

    「ああ、麻雀の本ですよ」

    「麻雀、しているんですか?」

    「ええ、つい最近はじめたばかりですが」

    「へええ……」

    「もしかして、あなたも?」

    麻雀しているかということでしょうか。麻雀。今は、ちょっと複雑な気持ちになります。

    だけどこの子には関係のない話でした。わたしは、顔に残った涙をごしごしと腕で拭くと、正直に答えます。

    「うん……はい、家族としかやったことありませんけど」

    「そうでしたか!」

    すると女の子はうれしそうに笑みを浮かべました。そして、

    「よかったらこれから一緒にやりませんか?」

    そんな誘いを持ちかけてきます。

    その頃には泣きたい衝動もいくらか治まってきていて、鼻にかかった涙声も、女の子との話に集中することでだいぶとましになってきていました。

    「ぐすっ、いいですけど……勝っても怒らない、ですか?」

    「当たり前です! 勝つか負けるかわからないのが麻雀……いえ、勝負というものですから」

    女の子のいうことはよくわからなかったけど、勝っても怒らない、その言葉にちょっとだけ安心します。

    「なら……やりたい、です」

    「じゃあ、そこの病院でやりましょう!」

    おずおずとしながら受け入れると、女の子は嬉々として言ってわたしの手をひっぱって導きます。

    その先は真っ白な病院。わたしは、これからの期待と不安に胸をふくらませながら女の子に連れられてその病院へと入っていきました。

    916 = 265 :

    ○▼

    朝陽の光りがカーテン越しに漏れる寝室で、咲は目を覚ます。

    夢を見たようだ。

    「ううん、……朝?」

    倦怠感のある身体をのそりと起こし、ベッドの先端に目を向ける。

    頭に棚のついた宮つきベッド。

    棚の上に乗った時計をみて時間を確認する。

    いつもと変わらない時間だ。安心する。

    起き上がって、身支度を始めた。




    「おっはよーサキ。今日もいい天気だね」

    身支度を終えて、登校するためにいつも通りネリーと合流する。

    「おはよう。うん、いい天気」

    朗らかに返す。顔を合わせ、互いの部屋の前で会話する。

    ネリーの服は民族衣装めいたあの衣服だ。自分は、白を基調としてリボンなどに赤の入ったセーラー服。

    「ふああ……」

    何とはなしにネリーの格好を眺めていると、手で抑えて噛み殺した欠伸を彼女が漏らす。

    「眠いの?」

    「ううん……」

    肯定とも否定ともとれる声が返ってくる。眠そうだ。

    「……ん、だいじょうぶ。いこうか」

    少し心配だが、学校に行って部室に着けば眠ることもできるだろう。
    うなずきで返して一緒に学校へと向かった。

    917 = 265 :

    「ねえ」

    通学するために乗った電車の車内。専用車両の座席で隣に座ったネリーから声をかけられて振り向く。

    「うん?」

    広げていた文庫本を脇に下げて言う。

    「きのうのこと、誰かに話した?」

    「あ、ううん。話しそうになったんだけど、話していいか聞いてなかったなって」

    いくぶん緊張味を帯びたネリーの問いかけに答える。

    「……そっか」

    するとネリーはよかった、と安堵するような感じで返す。こちらも、一応用件だけ伝えよう。

    「ちょうど聞こうと思ってたんだけど、話しても大丈夫?」

    「ん……」

    尋ねるとネリーは虚空に視線を滑らせた。熟考するような素振りだ。

    「……ねえ。誰にも話さないでって言ったら、そうしてくれる?」

    少しして、こちらの反応をうかがうようにしながら尋ねてくる。

    「ん、……構わないけど」

    誰にもというのはやはり家族も含むだろう。ということは……母にも、打ち明けられなくなる。

    918 = 265 :

    「家族なんかにも?」

    「うん。ネリーちゃんが、そうしてほしいなら」

    できるだけ自然に返す。事情はどうあれ家族にも隠し事めいたものを意識して抱える。あの頃のように。内心、反発する思いは小さくなかったが、こうもしおらしくネリーに頼まれれば聞き入れてもあげたくなる。

    この選択は、正しいのだろうか。けれど――、

    「……そっか! あの、ほんとにありがとね?」

    隣に座った彼女から、心なしか潤んだような青い瞳で見上げられてうれしさが込みあげる。現金、なのだろうか。我ながら感情に振り回されている。俯瞰してそんな自分を眺めると奇妙でもある。

    咲は、無言ながら柔らかな肯きで応えた。喜んでもらえたようだということが胸にぽっと灯りをともす。車窓から射し込む春の陽射しにも似たあたたかな心地だった。







    放課後、部活の時間。それまでは授業を受けて、お昼はネリーと過ごして、入学してから短い日数の間での変わらない過ごし方だった。

    念のためネリーに付き添ってもらって部室に向かう。適当に歓談しながら歩いていたら部室にはまもなくして到着した。

    他の部員も続々と入っていくからか開いたままの入口の扉を潜って、ネリーと並び中へと入っていく。

    中では、多くの部員が思い思いに歩き回っていたり、話していたりといった平穏な光景が広がっていた。そんな光景を目に、

    919 = 265 :

    「サキ、今日はネリーとペアね!」

    決定事項であるかのように告げるネリーに「うん、組もうか」と微笑んで返す。

    「よし、がんばろー」

    すると独特の衣服のだぶついた袖に隠れた手を突き上げて、意気揚々とネリーが言う。

    部活の時間の始まりだった。






    日本人部員二人と共にネリーと卓に座って、準備の整った対局に臨もうとしていたときのことだった。

    「グーテンモルゲン」

    陽気にそんなあいさつをしつつダヴァンが入口の扉から入ってくる。

    「遅刻だぞ」

    「申し訳ナイ。カップ麺が切れたので至急補充にいってまシタ」

    間髪入れず苦言を呈した智葉に向け、手に持ったレジ袋を軽く掲げて示す。

    「連絡受けてたからわかるが、お前は一日何杯食えば気が済むんだよ……太るぞ」

    ダヴァンは、智葉の忠告にもどこ吹く風といった様子でラーメンは別腹、などとのたまって割り当てられた卓に向かっていく。その先には、ペアの相手としてハオが待っている。

    「グーテンモルゲン……」

    そのハオは、昨日同様珍妙なあいさつをしたダヴァンに胡乱な目を向けて呟く。

    「今日はドイツの気分デス」

    「じゃあドイツ語言ってみてください」

    「アイネクライネナハトムジーク」

    「他は?」と訊かれるとダヴァンは鼻歌交じりに質問を無視して席につく。ボキャブラリーは一瞬で尽きたようだ。

    「はー、変わんないね。あいつも」

    そんなやりとりを咲と共に傍観していたネリーが憮然として言う。

    「あはは……ダヴァンさんらしい、のかな」

    咲も入部してから度々目にしてきた剽軽ぶり。愉快な人だと思う。

    「まあいいや。対局始めよっか」

    他の日本人部員共々、咲が呼応して肯きを返す。そして、対局が始まった。

    920 = 265 :

    「やったー、ネリーの勝ちだね!」

    暫くして。半荘が終わって勝敗が決する。

    持ち点二万五千点の三万点返し、ハコ下なしのルールでネリーが一位、咲が二位、そして日本人部員二人が続く結果となった。

    「負けちゃった。おめでとう、ネリーちゃん」

    「ふふん、苦しゅうない」

    時代劇めいた言葉遣いでふんぞり返るネリーに、咲は微笑みを浮かべる。

    「ネリーちゃんって本当に強いよね」

    そして、本心からの言葉を口にする。

    ネリーとは会ったばかりだし、能力の全容もまだわからないが、凄まじい強さを誇るように思う、現時点の印象で今までに咲が会った人の中でも上から数えた方が絶対に早い。もしかしたら、海千山千の留学生の中でも一際高い実力を持っているのではないか。咲はそう思うのだ。

    「サキもいい線いってると思うよ。同じ歳でこれだけデキる子はそういないし」

    そう言ってもらえると、咲もうれしくなる。他の留学生や智葉の本気がどれほどか察しかねるが、少なくともネリーには実力で及んでいない気がする。それだけ強い相手と毎日のように打てるのはきっと恵まれた環境なんだと思う。だから、もっと力を伸ばしたい。この打ち方で、もっと、もっと。

    その日は、時間の許す限りネリーをはじめ色んな相手との対局を重ね、充実した練習を積めたように感じた。





    部活が終わったばかりの部内は少し騒然としている。

    皆が帰り支度をしたのち帰宅を始めていくなか、咲も帰り支度を済ませ、けれどすぐには帰らずに人を待っていた。

    ネリーと一緒に帰るつもりだ。彼女は、留学生だけで集まるミーティングに参加している。だから、鞄を持って部室に隅っこで立っている。

    もうすぐ来るかな、いやまだ時間かかるかな、とそわそわしながら待っていると、

    921 = 265 :

    「おーい」

    肩に何か触れるものがあった。ちょんちょんと誰かに肩を叩かれているみたいな。同時に、すぐ近くで呼ぶような声。

    なんだろう。振り向いてみると、そこには見知った人の顔があった。

    「あっ……」

    振り向いた先に立っていたその人は、中学時代の先輩だった。一学年上で同じ学校。そして、部内にいることは一応知ってはいた人でもある。彼女は、振り向いたこちらに手のひらを軽く上げて、

    「や、覚えとる?」

    と、親しげに話しかけてくる。

    「は、はい……ご無沙汰してます」

    「ははは、ここ最近は顔合わせてたやん。喋ったりはせーへんかったけど」

    それもそうだ。現在は臨海の二年生である彼女とは、部内で顔を合わせることもある。今だってそうだ。

    緊張にいつもよりさらに口調が硬くなるのを感じながら、朗らかに笑いかけてくる彼女を緊張の面持ちで見つめる。

    「やー、同じ学校になるなんてなー、はじめて見たとき驚いたで?」

    「私も……驚きました。東京の学校にいってたんですね」

    中学の卒業後は大阪に帰るような話を小耳に挟んでいた。

    「ふむう、うちも大阪に帰ろうかと思たんやけどな、いっぺん東京で暮らしてみるのも面白いかと思てな?」

    「は、はあ……」

    「宮永さんもそんな感じ? ってその反応からすると別っぽいな」

    陽気におどけるような調子で話しかけてくる彼女に咲がたじたじしていると、

    922 = 265 :

    「あ、知っとる? 部長は長野いったんやってね」

    「部長……」

    「ああ、宮永さんが一年で、うちが二年やったときの部長な? ってか部長は地元なんやから、いったってのはおかしいか」

    長野の高校に進学したんやってね、と彼女は言い直す。

    「風越……やっけ。ほら、名門の」

    風越女子。咲も、名前くらいは聞いたことがある有名な高校だ。

    「風越……」

    意外そうでもなくトーンを下げて呟く。一応知ってはいる。風越ほどの名門でも見劣りしない実力がある人だと知っているから、肯ける選択だとも思う。

    ただ、長野に関係する話には苦々しいものを禁じ得なかった。それを絶対に表に出したりしないよう注意しつつ、この話題を流すことに努める。

    中学の先輩はすぐに話を変えてくれた。おそらく、避けようとしているのに気づいている。

    それすらも気づかせずに、知らせずに、話題を変えられる力があれば、と身勝手な願いを抱きながら先輩との話を当たり障りなく進めていく。

    やがて、会話も熟してきた頃、

    「おわったー!」

    奥の扉から元気一杯のネリーが飛び出してくるのが目に入り、どきっとした。

    「お、お戻りのようやな。そんじゃ宮永さん、お出迎えご苦労さん」

    同じく見ていた先輩は、解放感からかはしゃいだ様子のネリーから目線を切って、咲に微笑みかけながら伝える。

    「あ……お疲れさまです」

    「ふふ、ごゆっくり?」

    茶化すようにニヤニヤしながら言って、先輩はその場から静かに出口へと去っていった。

    923 = 265 :

    その後ろ姿がなんとなく気になって暫く追ったのち、なんとなく首をかしげて、そのまま沈思する。

    「サーキ! 何してるの?」

    「わひゃっ」

    考え事に夢中になっていると、いきなり肩にのしかかるような力が後方からかけられて、あられもない声をあげる。それを自覚した瞬間、少し血の気が引いた。

    慌てて後ろを向く。そこには、留学生が四人揃っていた。

    「あれ、驚かせちゃった?」

    のしかかって、すぐに離れていたのだろう、目の前にいるネリーが目を瞬かせる。

    「ネリー、あれは突然すぎるよ」

    「サキを驚かせてはいけまセン」

    ネリーの後ろから歩いてきたハオとダヴァンがそれぞれ苦言を呈するように言う。

    「む……たしかに、突然すぎたね」

    するとネリーは悪びれたようにしかめっ面をした。

    咲はすぐにフォローした。

    「あ、気にしないで。考え事してたせいもあるから。戻ってきてたのは気づいてたから、そこまで驚いてないし」

    鷹揚さを意識して柔らかな笑みを浮かべながら話す。

    「咲、一度くらいがつんと言ってやったほうがいいよ」

    苦笑するような目線を近くのネリーに送りながら言うと、ハオが足を止める。言葉面ほど、ネリーに業を煮やす感じではない。あくまでやんわりとした忠告だ。

    ハオの近くで足を止めたダヴァンはそれ以上は口にせず、納得したように何度か浅く肯いている。驚かされた本人が言うのなら、という風に。

    残る明華は――、

    「サキはやさしいね!」

    「あ、うん。じゃなかった、大げさだよ」

    ネリーから話しかけられて、受け答える。

    明華はよそに意識をとられていて、ぽややんとしたいつもの瞳を大きな窓の外に広がる景色に向けていた。興味なさそうに。

    924 = 265 :

    ここまで

    925 :

    おつおつ

    926 :


    最近更新早くて良いね

    928 :

    次から話が本題に入りますが年内の更新は厳しい、一月始めくらい目指して書いてます

    後すみません
    無駄に関連匂わせる表現してしまったので中学先輩の「大阪に帰る~」などの「大阪」を「関西」に変換しといて下さい
    1が関西出身で喋らせやすかっただけの関西弁キャラです紛らわしい事してしまった

    929 :



    薄暮の時間。青白く染まった空の地平線に太陽が暮れなずんでいる。

    こんな時分にはしじまが似合う。ノートや教材の紙面を走るシャーペン――メカニカルペンシルの音のほかに目立った物音を立てるもののない静かな部屋で、勉強机に向き合いながら咲は外の景色に目もくれず思いをよぎらせる。

    帰宅してから現在の六時過ぎに至るまで、ほぼ日課となっている勉強を黙々とこなしていた。そして、改めて感じる。

    ああ、やっぱりこれが理想的な営みだ……と。

    昨日、とくに帰り道の電車では気が急いて仕方なかった。練習を抜けて、懇意にしている相手のお願いを安請け合いして、あまつさえ街を遊び歩いて。尊んでいたはずの日常を助走をつけて飛び越えてしまった不安は、反動のように消化不能のもやもやをささくれ立った心に残していった。

    自分から望んで同行し、お願いを引き受けたのもすすんでの事だったのに変な話だ。けれどこうして一人考え込む時間と余裕が出来てしまうと、もやもやとした感覚がいっそう沁み込んでいく。目的に誠実であれなかったことへの不安、怯えに似たようなものまで頭に浸透してくる。

    こんな思いをする羽目になる。それに薄々感づいていたのに。

    結果、得るもののない迷妄に苛まれている。握る筆記具に力をこめすぎて芯が折れる。

    「あっ……」

    間抜けな声を上げる。何をやっているんだろう。かぶりを振って雑念を追い払う。

    目の前の勉強に意識を全集中しなければ。今この瞬間、全ての精力をそれに傾けなければならない。

    なのに。

    ふと、勉強の前に連絡し通話した母とのやりとりが反すうされる。

    930 = 265 :

    『……そう。私にも言えない、と』

    『怒ってる?』

    『怒ってはいない。ただ驚いてはいる』

    沈着冷静が常の母。もし言葉通りなら相当の衝撃を与えたのか。

    『あの、ね……言えないうえにこんなこと言ったらほんとうに怒らせちゃうかもしれないんだけど』

    『何?』

    母の催促は平坦ながらも穏やかだった。

    『出資者としてのお母さんに迷惑がかかっちゃうかも……』

    杞憂かもしれない。考えすぎかもしれない。ほかの人になら、こんな赦しを望むような言葉は不安に感じていても決して口にしない。しかし、母に対してはそのこだわりを捨てた。

    『ふう――』

    告白の返答は長い吐息だった。憮然とするような印象があった。

    『心配はない、というと変な気を回す貴女のことだからはっきり言っておく』

    引導を渡すような口調だった。

    『問題はない。貴女ごときが何をしても私に被害と言えるほどのものは与えられない』

    冷酷なようだが事実だ、と母は一貫して淡々とした調子で告げた。無理をしているのではないか、などという疑いを差し挟む余地がないほど母は厳然として平静だった。

    『被害は迷惑と言い換えてもいい。貴女が理解すべき事実は貴女は自分が思うよりも無力だ、ということ』

    『……』

    『何か言いたいことは?』

    突き放した話し方のまま、尋ねられる。反論などなかった。あるとすれば反省の言葉くらい。妄念に囚われて母にこのようなやりとりをさせてしまう自分を恥じた。だから。

    『ごめんね、家族にこんな話をさせちゃって』

    心から、不明を詫びた。

    『心地よいだけの関係が家族とは限らない』

    それに対する母の返答は早かった。

    『揺りかごのような環境を与えるだけでは精神の鋭利さは生まれない。そして、鋭利さを必要とする人間は貴女が考えるより世の中に多く存在する』

    哲学めいた言葉だった。懸命に考えをめぐらせる。

    『咲。私は貴女にもそれが必要だと考えている』

    母の言う鋭利さというものがよく分からないので否とも応とも言えない。玉虫色の沈黙で返す。

    『それでいい。ことこういう事に関しては拙速は望ましくない。ことあるごとに考えをめぐらせて、ようやく貴女の中に貴女なりの意味が生まれるでしょう』

    心の中で肯く。電話の向こうから一息つくような息遣いが聞こえた。

    931 = 265 :

    『私が貴女に命じることがあるとすれば一つ。報告の電話の習慣だけは欠かさないこと』

    『うん。わかった』

    そこに関しては二つ返事だった。迷う必要がない。

    母との電話はそれで終わった。いま思い返してみても息が詰まるような会話で堅苦しいやりとりだ。

    咲が理想とする母とのやりとりはこんなじゃない。もっと気楽で、心が安らぐようなあたたまるようなやりとりがしたい。

    本の世界……純文学では理想的なほかの家族はどんな風だっただろうか。ともかく、自分自身がもっと精進しなければきっと望めないもので。

    そうして壁を乗り越えてようやく望むやりとりができる。

    一度でもいい、母を笑わせてあげたい……ずっと、子供のころからずっと思い続けて叶えようとしてきたことを、現実のものに出来る。

    「……あっ」

    ようやく脱線しすぎた集中に気づきまた間抜けな声を出す。

    今私がすべきことはこっちだ。

    芯が折れて以降すっかり止まっていた手を動かす。それから、まもなくして没頭した。






    往来する車のエンジンや排気の音。犬の鳴き声。

    屋外から聞こえてくる雑多な音は閑静な高級住宅街といえど完全には避け得ない。

    しかし、ふとそれらがぴたりと止んで、静寂の訪れた部屋に一定の間隔で刻まれる秒針の音が響く。そんな時間がある。

    カチ、コチ……カチ、コチ……。

    紙面を走る筆記具の音よりも目立つ物音が鼓膜に規則的な振動をもたらす。

    今は……八時ごろ。中断せずにずっと熱中していたから進捗は捗々しい。

    その成果の対価にじんわりとした疲労が視神経に広がっていく。だが、それすらも心地よい。

    部活、勉強、そして夜に行うことが多い牌譜の分析研究。これらに熱中しているとえもいわれぬ安心感に包まれる。

    まるで、意識が研ぎ澄まされていくような……そういえばある有名な作家も文章を書くことで精神統一のような感覚を受ける、と漏らしていたことがある。

    何ごとによらず書いたり、描いたり……肉体と頭脳を同時に駆使するような作業は精神に大きな効用をもたらすのかもしれない。

    不意に浮かぶとりとめのない思考を手離して再度意識を傾ける。

    熱中のあまり進みすぎたきらいがあるが、無理のない範囲であれば。それも構わないと母から事前に聞いてある。だから、このページが終わるまでは続けよう――。そんなことを考えていたときだった。

    932 = 265 :

    ――――ガタンッ。

    意識の端でその音を捉える。この室内で立った物音ではない。室外、それも窓の外ではなく建物の中、マンションの玄関の方向から聞こえてきたもの。目立つ音だった。

    ――あ。ちっ、しまっ――。

    続けて、途切れ途切れの声がか細く聞こえてくる。聞き違いでなければネリーのものだ。咲は、手に持ったものを離し席を立った。

    「もしかして、うちに来たのかな」

    昨日に続き今日も来ないと聞いていた。でも、来るのなら歓迎だ。勉強を終えたら食事にしようとしていたところだったし。

    勉強もおろそかになっていないから懸念も大分と減っている。

    それでも諸手をあげて歓迎、とはいかない自分って面倒くさいな、と失笑しつつ玄関へと歩いていく。

    「ネリーちゃん?」

    そんな鬱屈した感情は玄関の扉を開けるころには押し込めて、扉を開けた先にいたネリーに声をかける。

    部屋着には見えないラフな私服を着た彼女は玄関口から首を出したこちらを平然と見つめ返した。

    「あ、やっぱり聞こえちゃった?」

    目が合うと悪びれた風に顔をしかめてネリーが返事をする。それからやや口早に、急いでて扉の開け閉めをちょっと乱暴にしてしまったのだ、と弁明してくる。

    「私は気にしてないけど……出かけるの?」

    扉の開け閉めは施錠するためだったようだ。加えて、ネリーの履いているのは靴。咲の部屋に来るときなどは決まってサンダルのような履き物だったように思うから、合わせて外出ではないかと推測する。

    「ああ、うん。ちょっとそこまで」

    「ふうん……」

    「あ、自分のとこくるかもしれないって思った?」

    悪戯っぽい笑みで指摘されて、うっ、と声をあげて目を逸らす。期待していたのは否定できない。そして、外出だと肯定されてがっかりしたような声を漏らしてしまったという自覚はあった。赤面するほどではないが一方通行な期待の虚しさを感じてしまう。

    「まあ今はちょっとむずかしいんだよね。お邪魔する側が言うのはあれだけど落ちついたらまた、ってことで」

    一方、簡単に事情を説明するネリーはからかう雰囲気をさっぱりとひっこめ、比較的真面目な調子で告げてくる。

    ネリーは相手の心証に敏い感があるのでほどよくからかいをやめたのか、それとも単に急いでいて長話を避けたのか。

    ともあれ、ふと気になったのは今は……今の時期は忙しい、みたいな物言い。近場のコンビニで買い物して帰るというのとは違うようだ。もしかして。

    「けっこう遠出する用事なの?」

    「あー、そうなるかな」

    考えついた可能性を質問してみると概ね肯定された。だが、どこにとか何の用事か、とかの言及まではしない。答えた後、何気なく合わせた視線を外して無軌道に宙に泳がせているあたり、言及したくなさそうにも見える。

    言いたくないなら聞き出す、という選択はとれない。自分がされたら嫌に決まっているのに、それを棚に上げて人にするのはひどく躊躇われる。どう反応したものかと暫し黙り込み、思案をめぐらせる。

    933 = 265 :

    そのとき。

    「うん……?」

    虫の羽音のような振動音が、ネリーの脚にぴったりとフィットしたレギンス、そのポケットの辺りからあがる。怪訝そうにしたネリーも声をあげた。

    マナーモードの着信。間を空けずポケットから未だ振動する携帯端末を彼女が取り出したことで確信する。

    着信か何か来たのだろう。何の変哲もない出来事。何を思うでもなく咲はネリーの挙動を漠然と見守る。

    だが。

    「ん……」

    彼女は携帯端末の液晶パネルに目を落とし心なしか忌々しそうな表情を浮かべた。







    ビルの外壁に設置された巨大なスクリーンを見上げる。渋谷駅前。夜が更けてもなお洪水となって押し寄せる人波がスクランブル交差点にあふれている。

    「サキ? 急いでるからいくよ」

    「あ……うん」

    ぼうっとして現実感のない返事をし、そばを歩くネリーと離れた距離を詰める。そして、わずかに先に立って誘導していく彼女を追う。

    夜の街は喧騒に満ちていた。きらびやかな光がそこら中に氾濫し夜闇をグラデーションの要素程度にまで成り下がらせている。春の薄闇など、眩い繁華街では飾りものでしかないのではないか。

    「手、握ったほうがいい?」

    明らかに気後れしていて、ついていくのもやっと。はた目にもそんな風に映る咲を見かねてか、ネリーが気遣わしげに提案する。まるで小さな子供のような扱い。だが、恥ずかしさを思い切って飲み込み、咲は「お願い……」と遠慮がちに手を差しだす。

    「素直でよろしい」

    やはり小さな子供を褒めるような言葉を「ふふん」と微笑み交じりに言われて、伸ばした手がとられる。咲としてはやや情けない気持ちになったが、ここで強がっても滑稽だしはぐれて迷惑をかけかねないなと思ったので、文句などは口にしない。

    恥ずかしい、という気持ちはたしかにあるが、さすがにこの程度なら忸怩たる、とまではならない。

    むしろ――目の前の彼女と、手をつなぐ口実ができてよかったかも。

    手を繋いでも隣に並ばないであくまで案内するように後ろ手に咲をひっぱるネリーの背中を眺めながら考える。

    934 = 265 :

    「でもサキ、ほんとによかったの?」

    手を繋いでから暫し無言で歩いていると急に尋ねられる。咲は苦笑した。

    「うん……時間は大丈夫だし」

    同時に、心の中で失笑した。もちろん自分自身に。

    咲は、夜間外出するネリーに同道している。咲が申し出た。

    昨日の今日、というかついさっき悔やむようなことをしていたのに懲りていない。ほんとう……自分には脳みそじゃなくワラが詰まっている。

    このときばかりは忸怩たる思いを禁じ得ず、しかし決して外面には出さずに表面上は微笑を湛える。

    ネリーはそんな咲を何が意味があるでもなさそうに見つめて、「そっか」と片づけると前を向く。一連のやりとりの間も足は止めていない。押しては寄せる人の波をネリーの導きですいすいと泳ぐようにかわして街中を進んでいく。

    渋谷。若者の街とも言われるだけあって、人込みを構成する通行人の年齢層は若めだ。もう八時はとうに過ぎているというのに、ネリーや咲と同年代らしき少年少女もそれなりにいた。時間帯もあるのか会社帰りのサラリーマンのようなスーツ姿の人もちらほら見受けられる。

    「ねえ」とくに密集していた人込みを抜けたのを見はからって、咲は声をかけた。すると振り向かずに「うん?」とネリーが相づちを返す。

    「いく場所って決まってる、んだよね?」

    言葉に詰まったのは決まっていないことはないだろうな、と思ったから。ぶらぶらと街を練り歩くのも考えられなくはないが、あの電話からして、待ち合わせ場所のようなものは少なくともあるはずだ。

    電話。はぐらかそうとするネリーと追及できない咲とで、気まずい沈黙が訪れそうだったとき。

    割り込むようにかかってきたあの電話を図らずも受話器越しに又聞きしてしまって。

    『あっ、エルティさーん! 今渋谷のアソコ向かってるんでぇ~! 早めにお願いしますよぉ~!』

    めったやたらに上機嫌な大声が、ネリーが耳に当てた端末から筒抜けになった。

    まさかと言わず聞き覚えのある声。あの特徴的な話し方は耳に残る。河川敷で対面した、あの金髪をオールバックにした青年の声に違いない。咲は聞いた瞬間確信した。

    彼との通話を終えたネリーから後で聞いた話では酒に酔っていたらしい。「秘密保守っていったのに……あんな常識はずれな声だすなんて」と今にも舌打ちでも聞こえてきそうな苦々しい顔でつぶやいたネリーは、今思い出してもはらわたが煮えくり返ったのを何とか押し留めるようなあり様だった。

    それから――、

    935 = 265 :

    「んー、小さめのファッションビル……ゲームセンターとかもテナントに入ってるとこで待ち合わせらしいけど」

    少し前の出来事に思いを馳せているとネリーから返事がきた。人込みに巻き込まれないよう注意もしないといけないから会話しても顔は前を向いたままだ。

    「ファッションビル……」

    「あんまり馴染みない?」

    「コンパクトなショッピンセンター……って考えたら」

    何とかわかるかもしれない、と頭にめぐらせたイメージを咀嚼して浅い肯きを繰り返しながら答える。地方都市でも大型のショッピングセンターはそこそこ見かける。咲の場合、出不精のような中学時代を送っていたので同年代と比べて馴染み深いとは言えないが。

    「ふふ、サキは田舎者だからね。都会のことはこのわたし様が教えてしんぜよう」

    「……そっちも上京したばっかのくせに」

    「お、生意気。いいぜ、この適応ライト浴びた並みに都会に順応したわたし様に舌を巻くがいい」

    影で事件を操作する黒幕のような雰囲気を気取りながら鼻息を鳴らすえらそうなネリーに、その背中にじっとりとした視線を送りながら咲は唇のあたりをもにょもにょさせた。

    「なんかえらそう」

    「えらいよ。サキが迷子になるかならないかはこの手にかかってるからねー」

    繋いだ手を持ち上げて示し、同時に後ろの咲を振り返ってにかっと笑う。春の陽だまりみたいな笑顔。思わず、咲は息を呑んだ。

    かわいい……小動物が精いっぱい強がるような感じがして、ぬいぐるみのように抱きしめてしまいたくなる。

    ネリーの笑顔を目の前にして咲は胸の鼓動を強くした。同時に、目頭が熱くなるような感覚がこみ上げる。

    小さな子供のような人を、自分はこんなに好んでいただろうか……思い出の中では幼いころの姉など家族の姿は目に焼きついて、姉には強い好意を抱いてはいるけど、姉に関してはあくまで昔だから子供の姿なのであって、小さいこと自体にはこだわりはない……と思う。

    いや、子供の姿でも……という思いもまたあるのは事実だけど、主に映像や紙面に見る成長した姉の姿は誇張抜きにうつくしくて。そう感じるのはきっとひいき目だけじゃない。

    脱線した。ともかく、大人びた姉に今でも恋い焦がれるような憧憬を向けているように、どちらかというと自分は包容力を感じる歳上の女性などに好感を覚える、というのは薄々自覚していたけれど。

    いま、ネリーに対して感じるときめきのようなものはそれとはまた一線を画している。蒐集する趣味などなかったから気づかなかったものの、本来ぬいぐるみをはじめとしたファンシーグッズや小物雑貨が好みなのかもしれない。高校生にして新しい自分の発見だった。

    そんな感慨がむくむくとわいてぼうっとネリーの顔を見つめ返していると。

    「うん? 今呆然とするとこあった?」

    ネリーとしては不可解な反応に映ったのだろう、困惑気味に指摘される。

    「えっ、あ……」

    感慨から我に返って、目をしばたたく。まさかあなたに見とれてました、なんて言えない。恋に落ちた男女じゃあるまいに。

    「あ、あー……」

    「……?」

    目を泳がせながらごまかしにならない声を漏らすと、不思議と怪訝が入りまじった表情で見つめられる。

    話題、別の話題……咲は思うように働かない頭を回転させる。

    936 = 265 :

    「あー……ファッションビル、どこらへんにあるのかな……?」

    悩んだ結果、話題を戻した。

    「もうすぐだよ。目の前だから」

    「もうすぐと目の前で重複してます。罰点」

    「細かっ!」

    動揺を押し隠すためにわざとらしく人差し指を立てて採点する教師を気取ってみる。案の定な反応で安心した。続けて、

    「国語には厳しくいくよ」

    「えー、外人なんだから甘くみてよ」冗談を口にするとブーイングが飛ぶ。律儀なことに「ぶーぶー」と効果音まで余念がない。

    「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす……教え子にもびしばしいくから」

    「いつ教え子にされたんだ……っていうか、そのたとえ絶対間違ってるよ!」

    「しってる。でも人は失敗から学ぶこともあるから」

    「自分のためかよ……そしてわたし実験台なんだね」

    モデルケースの導入には細心の注意を期さなければならないが、やはり多少の犠牲は呑み込まなくてはならないこともある。

    「カガクの発展に犠牲はつきものデース!」という言葉があるように、犠牲者をなくすというのは難しいものだ。

    「安心して。私はマウスにも愛情を込めるのがモットー」

    「まずマウスであることを否定してね」

    そんなこんなで、話はうやむやになったままファッションビルへと向かうのだった。

    937 = 265 :

    あ、ミスったsage外してないしsagaもついてなかった

    短いけどせっかく正月なので投下しました、あけましておめでとうございます
    ここまでです

    938 :


    今年も楽しみにしてる

    939 = 265 :

    >>935

    「コンパクトなショッピンセンター……って考えたら」

    ショッピングセンターですね、『ショッピンセンター』てこの部分だけなぜか流暢な英語っぽく発音する咲思い浮かべた

    940 :

    乙です
    ショッピンセンター気づかなかったww

    941 :

    おつ
    ネリーかわいい

    942 = 265 :

    >>936 すみません、最後ちょっとだけ付け足し


    「あー……ファッションビル、どこらへんにあるのかな……?」

    悩んだ結果、話題を戻した。

    「もうすぐだよ。目の前だから」

    「もうすぐと目の前で重複してます。罰点」

    「細かっ!」

    動揺を押し隠すためにわざとらしく人差し指を立てて採点する教師を気取ってみる。案の定な反応で安心した。続けて、

    「国語には厳しくいくよ」

    「えー、外人なんだから甘くみてよ」冗談を口にするとブーイングが飛ぶ。律儀なことに「ぶーぶー」と効果音まで余念がない。

    「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす……教え子にもびしばしいくから」

    「いつ教え子にされたんだ……っていうか、そのたとえ絶対間違ってるよ!」

    「しってる。でも人は失敗から学ぶこともあるから」

    「自分のためかよ……そしてわたし実験台なんだね」

    モデルケースの導入には細心の注意を期さなければならないが、やはり多少の犠牲は呑み込まなくてはならないこともある。

    「カガクの発展に犠牲はつきものデース!」という言葉があるように、犠牲者をなくすというのは難しいものだ。

    「安心して。私はマウスにも愛情を込めるのがモットー」

    「まずマウスであることを否定してね」

    そんなこんなでファッションビルへと向かう。話をうやむやにできた。そのことに安堵を覚えながら。

    ーーお姉ちゃんみたいに、振る舞えたかな。

    うきうきとしたネリーに手を引かれながら、先ほどした演技の細部を思い返して、咲はいつものように自身の立ち振舞いを採点した。

    943 :


    未来予知みたいな力もあるこの咲が無力って母はどんだけ化け物なんだろうか…

    944 :

    もし、彼女が臨海に入学していなかったらどうなってたでしょう。

    都内の街中を滑るように歩きながら私は考える。

    今年……いえ、新年を迎えた今となっては去年ですか。
    去年の四月、彼女は唐突に私たちの前にあらわれた。

    宮永咲。日本のインターハイチャンピオンと名高いあの宮永照の妹。

    入部当日、智葉をはじめとするその場の全員に対して切った彼女の啖呵は忘れられない。

    『臨海女子一年、宮永咲。入部を希望すると同時に、団体戦先鋒のレギュラーオーダーを希望します』

    あれから……色んなことがあった。入部当日は留学生四人で彼女の鼻っ柱を折ろうとして失敗したり、その後、道案内を買って出た私は彼女に言い知れない危うさを感じたり。

    四月のこと、五月のこと、六月のこと……夏のインターハイもあった。言い出したらきりがない。

    だから、割愛します。ごめんなさい。

    それに目的地に着いてしまったんですから、もうこれ以上過去の思い出話にばかり浸るのもアレですし。

    「あっ……明華さん、来てくれたんですね」

    そう言ったのは、歩いていく先、数歩程度の距離を空けたところに佇んでいる茶髪の少女。

    「私、すっぽかすと思われてたんですか?」

    「え、……あっ、そういう意味じゃなくて!」

    「信用ないんですね。傷つきました」

    「ぐすん」などとわざとらしい効果音を棒読みしてみると、それさえ、目の前にいる少女には罪悪感を刺激する材料となったらしく、あわあわと目を回す。

    「あ、あ……違うんです、来てくれたのが嬉しくて。それで」

    「知ってますよ」

    最初から、といつも通りの微笑を湛えながら付け足す。というか、傷ついたふりをしていたときですら微笑みを浮かべてたのですが。彼女は疑うということを知らないようです。

    「……もしかして、私からかわれてます?」

    「おや、鋭くなりましたね。智葉に散々からかわれた賜物じゃないですか」

    「も、もう! からかうのはやめてください!」

    彼女はほんのりと顔を赤らめて怒った風に語気を強くする。

    けれど、私は知っていました。彼女はこれっぽっちも怒っていない……その振舞いは単なるポーズなのだと。

    「散々いじり回してくるのは先輩だけで十分ですよ……」

    しかし感傷的になっていた私は、彼女がふとこぼした言葉に戦慄します。

    「さ、咲さん……まさか智葉のイジメがくせになっ」

    「なっ、違います違います違います! そんなことあるわけありません!」

    最後まで言わせてももらえませんでした。

    「あ、あれは私が最初にまぎらわしいことしたから……だから、甘んじて受けなちゃいけなくてっ、構ってもらえて嬉しいとかそういうのじゃないんですからね!?」

    先ほどより遥かに赤く頬を染めて、言い訳めいた言葉を重ねてくる。まるで癇癪を起こした猫のようです。彼女は、こんな顔をめったに見せない。こんな公衆の面前であれば尚更に。

    通りがかっていく人の視線がちらちらと向いていたが、激昂している彼女には意識に入らないようだ。おそらく、後々気づいて悶えるはめになるんでしょうけど。

    945 = 265 :

    「それはそうと咲さん」

    「はーっ、はーっ、……な、何でしょう?」

    「買い物、いきましょうか」

    「……へっ」

    彼女が呆然とします。なんと口が半開き。貴重な表情が見られた気がします。

    「七草がゆと、追加のお雑煮とかの材料買いにいくんですよね?」

    たしか、そういう理由で買い物に誘われたと記憶している。臨海の面々は大食らい、というか咲さんの料理ならいくらでも食べてしまうところがあるから、せがまれて作ることになる咲さんはかなり苦労してそうです。せめて雑用は手伝ってあげましょう。私も食べたいし。

    「あ……は、はい、そうでした。よろしくお願いします」

    ぺっこりん。そんな効果音が聞こえてきそうな感じに頭を下げてくる。昔……といっても数ヵ月ほど前ですが、その頃と比べると頭の下げ方ひとつとっても違います。昔はなんというか、もっと慇懃で、他人行儀な感じでした。

    ほんとうに打ち解けてくれたんですね……しみじみと感慨がわき上がってきます。

    「あの、明華さん?」

    あらいけません。ぼうっとして心配をかけてしまいました。

    「いえ、なんでもないです。それより、いきましょうか」

    何事もなかったかのように言う。
    平静を取り繕う……というか、表情を変化させないのは得意です。隠そうとしなくたって、動揺が表に出ることもほとんどありません。

    以前は……生来のポーカーフェイスであることに思うところがなかったとは言えない時期もありましたが、今となっては吹っ切れて、過去の話です。

    それもーー、

    「はいっ、いきましょう!」

    目の前で屈託のない笑顔を向けてくれる彼女のお陰かもしれません。
    私は、自然と浮かぶ無機質な微笑みではなく、心からの微笑みを浮かべて彼女の……咲さんが差し出した手をとりました。

    946 = 265 :

    「おっかえりー! ご苦労!」

    無事買い物を終え、臨海の部室へと帰り着いた咲さんと私の前にあらわれたのは、見覚えのある金髪の女の子でした。

    白糸台の大星淡。彼女は、臨海メンバーがこたつを囲んでいる部屋になぜか居て、ぐるりと見渡してみるとやはりどうしてか白糸台の面々が部屋にたむろってます。

    「お、お姉ちゃん来てたの……?」

    そこには、咲さんのお姉さんである照さんもいて。

    こたつに入っている臨海メンバーに紛れてお茶請けのせんべいをバリバリしてました。

    「当然。妹のいるところに姉の影あり。妹の所在を把握しない姉などいない」

    「黙れストーカー」

    白糸台の尭深ちゃんと並んで湯のみでお茶を啜っていた智葉が辛辣な指摘を浴びせます。さもありなん。ストーキングは犯罪です。

    「ふう……言葉面しか捉えられない人間はこれだから困る。今のは言葉のあや」

    ストーカー、という単語が飛び出てびくっとした咲さんを見て取っての事か、照さんは言い訳を始めます。若干苦しい。

    「だから咲、お姉ちゃんの胸に飛び込んでおいで」

    さも冷静そうに詭弁を唱え、両手を広げるストーカー(仮)の言葉に咲さんは困惑気味でした。狼狽して、なんと返したらいいかわからなさそうな感じ。

    だから私は咲さんに耳打ちして助言しました。

    「私の半径一キロ以内に金輪際近づかないでくださいストーカー、です」

    「そこのフランス人。耳打ちでそれだけ大きな声で話すということは私に喧嘩を売っていると判断していい?」

    あらいけません、焦りのあまり声量を大きくしすぎたようです。(真っ赤な嘘)

    「いえいえめっそうもない」

    「紛らわしいことは控えるべき。蟻のようなあなたの事だからうっかりプチっと踏み潰してしまうかもしれない」

    尊大な言葉遣い。普段の彼女がそうだとは聞きませんが、長年離れていた妹を前にして何かしら、箍が外れているみたいです。

    「おい照、言葉が過ぎるぞ」

    「ごめん。つい」

    気安いやりとりで智葉と照さんが言葉を交わす。

    「ちょっと! 無視しないでよ!」

    そこで騒ぎ立てたのは、最初に労いの言葉を上から目線ながらくれて以降、ほっぽられた白糸台の淡ちゃんでした。

    947 = 265 :

    「あっ……ごめんね淡ちゃん、ありがとう」

    「むっふーん、やっぱりサキはわかってるねー」

    咲さんがお礼を口にすると怒り顔をとたんに綻ばせて淡ちゃんはその勢いでふんぞり返ります。

    「あとは感謝のしるしがあったらパーフェクト!」

    「感謝のしるし?」

    「お雑煮とかの材料買いにいってたんでしょ? だからつくったそれを私に」

    淡ちゃんの言葉の途中で遮るように智葉が咳払いしました。

    「悪いな、咲の料理は臨海専用なんだ」

    「なっ、まさか姉であるこの私にも分けないつもり?」

    微妙にスネ夫くんのような事を言い出す智葉に言いがかりをつける照さん。

    「当然だろ? ほら、お前は大好きな菓子でも食ってろ。せんべいあるぞせんべい」

    「せんべいは私的にフェイバリットお菓子感が薄い。私の好みはいわゆるスイーツ」

    「贅沢な。日本人なら米菓をーー」

    局地的に不毛な言い争いが勃発し繰り広げられる中、誠子ちゃんは落ち着いてこたつにも入れずあわあわと右往左往しています。

    「せんべいの何が不満だ! ほら見ろ、しかも草加せんべいだぞ!」

    「都道府県魅力度ランキング44位の負け犬埼玉の名物か……気が進まないな」

    「ま、負け犬だと」

    「44位など関東の恥さらし。そこの名物なんて、新年から縁起の悪いものを出さないで。常識というものがないの?」

    埼玉を誰憚らずdisる照さんも常識がないと言われても仕方なさそうでしたが、今ばかりは年が明けたばかりの時節だからか、智葉はぐっと苦々しげに顔を歪めて押し黙りました。しかし、ここに埼玉県民がいたら骨肉の争いに発展するところです。

    「お、お姉ちゃん……」

    と、おっかなびっくり呼びかけたのは隣に立つ咲さんです。

    「咲?」

    そうなれば真っ先に振り向くのが照さんです。この人、割とっていうか普通にシスコンですよね。

    さて、それはともかく咲さんは何を言うつもりなんでしょう。やんわりと仲裁するつもりでしょうか……

    しかし、困ったように顔をしかめた咲さんの口から飛び出たのは思いもよらない言葉でした。

    「あの……先輩に限らないけどあんまり失礼なこと言わないで。しかも新年早々、自分から押しかけておいて……お姉ちゃんは恥っていうものを知らないの?」

    真っ向から非難するような刺々しい言葉。これには私を含め、居合わせた臨海の面々も呆気にとられて、あるいはぎょっとしました。

    「え……」

    「立場を考えてよ。私だって困るし……」

    咲さんはめったに人を批判しません。それは、「誰もが自分のように恵まれた条件を与えられたわけじゃないから」という、グレートギャツビーの冒頭に出てくる一節に影響されたのだと咲さんは話していましたが、むろんそれだけではないんでしょう。

    ともかく。そんな咲さんが、誰かを悪し様に言うとは夢にも思わなかったのです。他のメンバーも新年一番の驚きでしょう。しかも相手はあんなに慕っている照さんです。

    948 = 265 :

    「さ、咲……」

    「何で、臨海の人たちといると口が悪くなるの? いつもは優しいのに……」

    悲しげに眉をひそめた咲さんが鳶色の瞳を陰らせる。その様子は、怒っているというよりひたすら辛く悲しそうでした。

    「咲、あまり言ってやるな」

    ほとんど誰もが反応に苦慮していた中、口を挟んだのはついさっきまで口喧嘩してたはずの智葉でした。

    「こいつにも押し隠した思いというものがある」

    「理不尽な力で団体戦のレギュラーを落とされた私が、表向きはお前を激励しながら心のどこかで鬱屈した感情を残してたように、咲……お前だってわからなくはないはずだ」

    真剣な智葉の言葉を受けて咲さんは瞠目し、次いで伏し目がちにうつむきました。

    「……ごめんなさいお姉ちゃん。言いすぎた」

    「いや……私が悪いのは確かだから。ごめん」

    「先輩も……ごめんなさい」

    「それが、レギュラー選出の事を謝ってるんでなければいいよ」

    それから、咲さんは空気を悪くした事を平謝りしました。空気を悪くしたのは事実ですが、めったに我というものを出さない彼女が周囲との同調を崩してまでああした理由、というか事情は臨海のメンバーであれば薄々察せる事でした。こんな事を言っては不謹慎かもしれませんが、私は嬉しさが勝りました。他のメンバーも、悪い気はしていなさそうです。

    一方で、

    「私完全に空気……?」

    混ざろうにも話に入れない淡ちゃんはがっくりしていました。腰を下ろした和室の畳に足を伸ばしてつまらなそうにしてます。

    誠子ちゃんは相変わらず謝り回りにいっていて、尭深ちゃんは不動の姿勢でお茶を啜っていました。

    場の雰囲気もすっかり立ち戻ってきているようです。そんな中、私は咲さんに声をかけ連れ立って部屋を後にする……

    その直後、

    949 = 265 :

    「あっ、起きてきたんですかネリー」

    和室のすぐ外の板張りの廊下に見慣れた顔がありました。ネリー・ヴィルサラーゼ。我らが臨海が誇る留学生……そして、咲さんにとって最も特別な相手。

    「ミョンファ? それにサキも……何かしにいくの?」

    寝ぼけ眼をこするネリーの姿を目に、私は、自分の役目の終わりを悟りました。ここからは……彼女の番です。

    「咲さんがお雑煮とかを作るんですけど……私は見送りです」

    隣に立つ咲さんが「えっ」と漏らして顔をこちらに向けました。話が違う。そう言いたげな顔。

    「あっ、ならネリーの出番だね。修行イベント発生!」

    お馴染みの赤と白の民族衣装めいた衣服の余る袖で手を隠したままネリーが腕を突き上げる。嬉々としていた。はた目にも。

    「お買い物で疲れちゃったので和室で休んでますね」

    疲れなど、全く感じていない。他の人の目にもそうは見えないでしょう。とはいえ、そもそも疲労困憊した様子を今までに見せた事がないから、強ち怪しまれるばかりでもないだろう。怪しまれたところで大して困る訳でもない。

    「お買い物、付き合ってくれてありがとうございました。お疲れ様です」

    「どういたしまして。じゃ、後は任せますねネリー」

    「……わかった。またね、ミョンファ」

    踵を回らせて来た道を引き返す。

    ネリーと咲さんが調理する部屋に並んで歩いていくのを密かに首をねじった視界の端で捉え、そうしてから前を向く。

    歩きながら、考える。

    ものごとは、収まりのよいものが好ましい。私の持論だ。

    数字を前にしていると、とても落ち着いた気持ちになれる……ものごとが収まるべきところに収まっていくような。それが数学を好む理由のひとつ。

    3という数字。恋愛事においてそれは……収まりが悪い。

    ものごとには収まるべきところがある……収まりの悪いものは好きではありません。だから、私にとってこの選択は合理的な選択でした。

    けれど。

    和室に入る直前、我知らずため息がこぼれました。

    950 = 265 :

    正月の記念に書きました
    他のスレ用のだったんですが、これの後日談として書いたので問題ないはず
    今のプロットやキャラ設定通りなら矛盾も出ないはず…
    ここまでです
    本編の次回投下分は今進捗40%くらいです


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