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    元スレ菫「見つけた。貴方が私の王だ」咲「えっ」

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    101 = 96 :

    「こんな早朝に扉を開け、どこに行こうとしていた?まさか心変わりをしたのではあるまいな」

    「王になる事は了承したはず。まさか、また逃げようなどと…」

    「!?ち、違います!違う、そうじゃなくて…」

    「では、なぜ外へ…」
     
    詰め寄ってきそうな気配を感じ取り、慌てて咲は言葉を返す。

    「あの、情けない話ですが。こんな立派過ぎる部屋に一人でいると、色々と不安な事が浮かんできてしまって」

    「だからいつものように掃除でもして気を紛らわせようとしたんです」

    「でも、道具が見付からなかったから外へ探しに行こうかと……」

    「…掃除?」

    「はい」

    素直に頷く咲を一瞥し、彼女は訝しげに歪めていた表情を一応は緩めた。

    刻んでいた険は薄くなったが……変わって呆れた空気が彼女の気配に滲む。

    「……王である貴方がする事ではない」

    「でも、この部屋を使ったのは私ですからこれぐらいは…」

    「必要無い。他にする事は山とある」

    続こうとした咲の言葉は、途中で容赦なく断ち切られる。

    その強い口調に、咲は自分が責められている気がして自然と怯えるよう口を噤んでしまった。

    次いで、鋭く向けられる眼光から逃げるように俯く。

    実際、怖いと思った。

    脳裏に浮かんだのは……商家での生活で。

    102 = 96 :

    暴虐不尽な主人により一方的に責められ続けた日々を思い出し身も心も竦んだ。

    余計な事は言わない、目立ってはいけない。

    そうやってひっそりと生活するのが一番、安全なのだと今まで信じてきた。

    眼前に立つ少女より向けられる鋭い眼光はかつての主人を思い出し、途端に何か言葉を返す気力も萎えた。

    咲は下を向いたまま、じっと嵐を過ぎ去るのだけを待ち続けた。

    互いに無言のまま、どれくらいの時間が過ぎたのか。

    気付いたのは俯いたままでも鼓膜へと届いた…深いため息の音が聞こえたからだった。

    ビクリ、と体が震える。だが咲は顔を上げる事はできなかった。

    だって、顔を上げて眼前に立つ少女の、更に深い落胆が浮かぶ顔を見るのだけは嫌だった。

    自分から顔を伏せて逃げた癖に、期待外れだったと見られるのが、思われるのが嫌なのだと感じている。

    自分でも随分虫のいい話だと思った。

    でも。顔を上げて…彼女より帰れ、と容赦なく言われれば。

    まだ傷は浅い内に、夢のようなこの現実から目覚める事はできるのではないかと気付く。

    だから俯いたまま唇を噛み締めると、意を決して咲は顔を上げようとした。
     
    だが。顔を上げて、咲の視界に見えたのは…背を向けた少女の姿で。

    想像していた通りの拒絶の言葉はなかったけれど。なにか見限られたような気がして心がチクリと痛む。

    思わず「あの」とその背に咲は声を掛けた。

    すると彼女は出て行こうとする足を止めた。が、背を向けたままに言う。

    「…まずは食事の用意をさせる。それが終わったら、これからの事を詳しく話すから」

    いいな、と言われ反射的に了承の返事をする。

    そんな咲の声を聞き届けたのだろう後ろ姿は、他には何も言わずに歩き出す。

    そのまま扉の向こうへと消えて行き、重厚な扉は閉められた。

    残された咲は、再び朝の静寂の中に一人。

    広すぎる部屋の中に在って、所在無く佇むしかなかった。
     
     
    ■  ■  ■

     

    103 = 96 :

    やる気に目覚めた智美は、徹夜で処理し続けた書類の山を抱えながら意気揚々とやってきたのだが。

    扉の外より声を掛けて、まずは反応が無いのを不思議に思った。

    2度、3度と声を掛けても返事がないのを訝しく思う。

    結局、書類を抱えたままの腕が上げた悲鳴に負けて、痺れを切らせて勝手に扉を開けて中に入って行ったのだが。

    まずはキョロリと室内を見渡した限り姿は見えない。

    きっと奥の個人的な執務室にいるのだろう。

    何があったかは知らないが、こうも反応がないのならば彼女の機嫌は期待しない方がいい。

    どうしたというのか。折角彼女が長く探し続けていた王も無事に見付かったと言うのに。
     
    取り合えず、智美は入ってからすぐにある机台に抱えていた書類の山をドサリと預ける。

    そうして開放された腕の痺れを払う意味も込めてぐるぐる廻しながら、奥に続く部屋へと向かった。

    案の定、覗いた室内の先、奥に置かれた書斎机の向こうに。

    こちらに背を向けて椅子に座り込むこの部屋の主の姿を確認した。

    智美「何回も呼んでるんだがなー…どうしたんだ?菫ちん」

    背中が怖いぞ、と軽い調子で声を掛けると、眼前の菫が纏う剣呑さが増したような気がした。

    おっと、これはいらぬ火に油を注いでしまったか、と智美は苦笑いを浮かべながら更に奥へと進む。

    重厚な書斎机に手の平を置き、その向こうで相も変わらずやってきた智美へ背を向け、

    無言を突き通し続けるこの国の台輔に負けじと名を呼んだ。

    智美「おーい、菫ちん。こんな近くで呼んでも気付かない程、耳が遠くなったのかな?」

    「………煩いぞ、智美」

    根負けしたのか、小さくではあるが返ってきた菫の声に満足して智美はにんまり笑みを形作る。

    智美「どうしたんだ?これからやる事はたくさんあるってのに……」

    智美「そんなに燻ぶってちゃ、物事も上手く進まないぞ?折角見つけた主上にも愛想尽かされちゃうかもなー」

    「……っ!!」

    104 = 96 :

    短くだが息を呑む気配。仕草。

    その姿を見逃さなかった智美は脳裏にピンとくるものがあった。瞬時に状況をある程度理解する。

    だから、ワハハと軽く見せていた調子を解くと精一杯の呆れを滲ませ言ってやる。

    智美「………菫ちん、昨日の今日で、もうやらかしたのか?」

    「………」

    無言は肯定と受け取る。

    智美「主上に、何か言っちゃったのか?」

    菫より返ってくる言葉は無い。

    ただ見つめる先の背中を眺めながら、図星だと気付いた智美は浅く息を吐いた。

    智美「不器用な癖に、人に誤解される事だけは器用なんだから。まさかいつもの調子で冷たくあしらったのか?」

    さすがに、それは私も許さないぞと。智美にしては珍しく語尾を荒げる。

    いくらこの国の神獣であろうとも、その菫が選んだ少女が王であり

    つまる所、この才州国に属する智美の王でもあるのだから。

    その王を蔑ろにするのなら智美とて怒る権利はあるはずだ。

    だから再度、菫へと詰め寄ろうとした瞬間。

    今まで背を向けていた菫がくるり、とこちらに向き直る。

    突然の事だったから、詰め寄ろうとして大きく開けた口はそのままに、言葉だけが行き場を失った。

    智美「………」

    ああ。つまる所、眼前の少女は天帝より一つの国へと授けられた尊い神獣の癖に。

    こうして人間臭く悩み、智美の目の前で途方に暮れそうになっているのだ。

    額に手を当て、智美は天を仰ぎたくなってしまった。取り合えず抱いた怒りは急激に萎んでいく。

    105 = 96 :

    大きく開けたままになっていた口をゆっくり閉じる。

    できるだけ穏やかな口調を心掛けてから、智美は菫へと言った。

    智美「何があったのか言ってくれ。私でやれる事はするから」

    「………」

    智美「菫ちん」

    強い口調で名を呼ぶ。

    菫はようやくその重い口を開けた。そして、ぽつりぽつり、言葉を返してくる。

    「私はただ……主上に朝の挨拶と。そ…側に居たかっただけで」

    智美「うんうん」

    健気じゃないか、そう素直に智美も思うけれど。

    むしろ、不遜な態度が有名な菫をここまで健気にさせる、王たる少女の末を頼もしく思った。

    で?と先を促すと……更に、ぽつりぽつり、返ってくる言葉は続く。

    「だけど、扉を開けて窺うよう外に出ようとした姿が見えたから。…どこか堅い様子も分かったし、だから」

    「もしや突然心変わりしてまた去ろうとしてるんじゃないかと。そう思ってしまったらつい責める口調になってしまったんだ…」

    聞きながら、その時の光景が鮮明に智美の脳裏に浮かぶ。簡単に想像できる。

    ああ、やはり……なんとも不器用な少女だ。

    智美「で、実際はどうだったんだ?…心変わりして去ろうとしてたのか?」

    尋ねると、菫はゆっくり首を左右に振る。違う、という仕草に無意識に智美もほっと安堵の息を吐いた。

    この傾きかけた国であって、やっとで見つけた王たる少女だ。

    できるならば、無理矢理ではなくて、自発的に王として勤めを果たして頂きたい。その決意をして欲しい。

    智美「じゃ、なんで?」

    「なんでも部屋の掃除をしたかったと。そのまえに道具を探しに行こうとしていたらしい」

    智美「………掃除?部屋の?」

    菫はコクリと頷く。

    106 = 96 :

    「自分が使ったからと。でもそんなことは王のする事ではない、だから必要無いと言った」

    智美「………」

    智美は話を聞いていて、別段菫の行動を可笑しいとは思わなかった。むしろ、正しい事を言ったと思う。

    そして、王たる少女の行動も……昨日まで市井の片隅で生きてきたのならば、仕方ないのかもしれないとも思えた。

    菫から聞いた話や、彼女が負っていた傷から連想するに…きっと圧迫された生活を送ってきたのだろうし。

    だがそれは菫よりも世間を知っていて、なおかつ柔軟な思考で物事を考えられる智美ならば思い至れる訳で。

    つまり、智美が結論付けるに彼女らの行き違いの根本は価値観の差であり、どちらが悪いという話では無い。

    ただ、 まだ初対面に近い状態で菫の不器用さだけが向こう側へと伝わってしまったのは頂けないと思った。

    智美「それから、主上は何て言ったんだ?」

    「………何も」

    智美「何も?」

    「俯いてしまって、そのまま暫く待っても顔を上げてすらくれなかった。…鈍い私でも、拒絶されている事は分かる」

    「ならば、必要とされていないのにあのまま側に留まることはできんだろうが」

    気のせいでなければ…語尾は震えていたかもしれない。

    こんな菫は王を探して彷徨っていた頃に等しく感じた。

    智美「…菫ちん」

    気遣いを持って名を呼ぶと、彼女は軽く頭を振った。そして、言葉を続ける。

    「そういう事だ。…私は、どうすればあの人の側に居てもいいのか…」

    「麒麟の時の話ではあるが…触れてもらえるのかわからない」

    そうしてまた、菫は紫色の瞳を不安気に揺らした。

    項垂れる麒麟を前に、仕方なさそうに智美は微笑を浮かべる。

    智美「じゃあ、菫ちんは私に何をして欲しいんだ?」

    何も知らずにやってきた自分を下がらせるでもなく、こうして中に通したのは多分、頼みたい事があったからだろう。

    事実、菫は浅く頷いてから言った。

    107 = 96 :

    「主上には一方の王としての教養を学んでもらわねばなるまい。今まで学を身に付ける機会も少なかったようだから」

    「そのために信頼に足る師も用意する。…それらを傍で世話する役目を、お前に頼みたいんだ」

    智美「私でいいのか?誤解を解くためにも菫ちんが側についた方がいいんじゃ…本当はそのつもりだったんだろ?」

    「…………」

    やはり、無言は肯定でしかなくて。暫くの後、菫は首を左右に振った。

    そのまま俯き加減に、ぽつりと呟く。智美にと言うよりは……まるで自分に言い聞かせるように。

    「私は……きっと嫌われてしまっただろうから」

    だから。と、菫は首を巡らせ全く関係のない方向を徐に見上げる。

    その視線を智美が追いかけても、開かれた窓より白い雲と、青い空しか見えない。

    だが何かを感じ取るよう向ける菫の様子から、彼女が何を見ているのかは推測できた。

    多分菫がじっと見つめる先には、彼女しか辿れない王の気配があって。

    智美から見れば遠くに在る王へと一心に心を傾けている麒麟が目の前にいるだけだ。

    本当に、不器用な事この上ない。

    智美「まぁ、台輔が決めて、命じるのなら。……私は従います、臣下ですから」

    「頼む」

    間髪入れずに、返ってきた堅い声を聞いて。

    これ以上、この場で何かを言い返すのは得策ではないと智美は判断する。

    だから徐に目の前の書斎机に預けていた体を起こし一歩分だけ後退すると、姿勢を正した。

    そして、胸の前で合掌をし「御意」と、遠くを見たままの台輔に向かい智美は一礼したのだった。


    ■  ■  ■

    108 = 96 :

    時間を見計らって、智美は目当ての部屋へと辿り着く。

    扉の前に立つと丁度中より「今日はここまでですので、お疲れ様でございました」と柔い声が聞こえた。

    だから、たっぷり一拍置いてから「失礼します」と声を掛けて扉を開く。

    中には丸い机が置かれていて、対照的な位置に座る二人の人影があった。

    一人は老齢で温厚な雰囲気の老人で…学の師だ。

    市井より、菫が信頼に足る人物だと御呼びした先生で。

    事実、智美も初対面で顔合わせした時はその柔らかな物腰、態度に好感を持った。

    そしてそれは先生の目の前で「ありがとうございました」と丁寧に礼を述べる少女も同じだったのだと思う。


    彼女が、咲が、この国の王だ。


    最初こそかちこちに緊張した面持ちだったが。

    こうして先生に教えを請う回数が増える度に、彼女らの師弟としての親しさが増しているような気がする。

    「丁度良くいらしゃいましたな。それでは主上、また明後日参上致しますので」

    「はい。宜しくお願い致します」

    咲はたまたま今まで学門より遠ざかる生活を送っていたから無知に近い状態だったが。

    元々の素養は高いのだろう、こうして師に教わればそれこそ水を吸い込む綿のように知識を習得していった。

    そうやって師より学問と道徳を学ぶ事も大事だけれど、

    彼女が一番に目を輝かせたのは、奥まった場所にあった書庫で。

    勉学や執務の合間を縫ってはよく一人で車庫に篭り書物を読み耽っている有様だった。

    109 = 96 :

    智美なんかは官吏の試験の時にはそれこそ山のように書物を読んだけれど。

    それが過ぎ去ってしまえば、余り手にする事も無い。

    仕事柄、資料を纏めるときなんかは書物を手に取るが…咲はどうやら読むこと自体がとても好きなようだった。

    そんな事をつらつらと考えていたら、目の前を通り過ぎようとした先生に気付き智美は慌てて拝礼する。

    そんな自分を見て目を細めて笑う老人は、軽く相槌を打ってから智美が開けたままだった扉より出て行く。

    どうやら予定通り、今日の授業は終わったようだ。

    振り向き、まだ室内に残っていた咲へと智美は明るい声を掛ける。

    智美「今日はどうでしたか、主上?」

    「頭がいっぱいです。…先生と話してると本当に、覚える事がたくさんあるんだなって」

    「私は今まで、すごい狭い世界で生きてきたんだなって思ってしまいます」

    智美「申し訳ありません。無理をさせているとは思いますがこれも御身と、この国のためなのだとお思い下さい」

    智美「主上が御座におられるようになってから…朝廷は元より国府の中も俄かに慌しくなって参りました」

    「はい」

    智美「どうか、しっかりとしたご自身の知識を持ってから。朝廷、そしてこの国を、民を覧になって下さい」

    智美「一方的な意見だけを聞き頷くのではなく、起きる物事の本質を見誤らぬよう。…ここでは誰が敵で、誰が味方なのかを」

    「……端から見ればとても華美であるのに、怖い所なんですね。ここは」

    智美「主上が立たれるまで仮王朝を正す事ができなかったのは、一重に私を含め、諸官らの不徳の致すところです」

    智美が言い切ると、その先を遮るように咲は首を左右に振る。

    110 = 96 :

    「諸官全てに咎がある訳ではないでしょう。少なくともこうして度々私を助けてくれている智美さんは味方だと思っています」

    迷いの見えない声。思わず面食らった智美は暫し無言になる。

    臣下として、王からのその言葉に歓喜しなかったと言えば嘘になるが。

    ただ、真っ直ぐな態度、そして言葉に一抹の不安も覚えた。

    できれば、この清らかさを智美とて守りたいと思うが……

    先程咲が言っていた通り、王がいるこの場所は華美に見えるが怖い所なのだ。

    王が御座に立った事でもはや朝廷内でも表面には見えぬ駆け引きは始まっている。

    智美「…言い切ってもよろしいので?先程言ったはずです、一方的な意見だけを聞くのでは物事の本質を見誤られる」

    脅しのような文句になってしまったけれど。

    それに対して、咲はしっかりとした口調で言葉を返してくる。

    「王としてではなく、人として。目の前に立つ人間が真摯に心を持って受け答えしてくれているかどうかは分かるつもりです」

    「私は商家の下働きも長かったですし…人の裏の顔というものを盗み見てきましたから」

    智美「……ご苦労なさっておいでだったか」

    「細々とでも生きていくためですね。顔色を窺っていれば、どうにか嵐を避ける事もできましたから。でも…」

    「私が今この場に立っているという事は。かつての私のような人間を一人でも減らす事ができるということですよね?」

    智美「………」

    「そのためにこうして本を読み、師に師事を仰いでいるのだと。最近になって、ようやく分かってきました」

    初めて彼女を見たときに感じた儚さを払拭するかのような態度だと思った。

    まだ、途中ではあるけれど。期待してもいいのではないだろうか。この真摯な王に。

    だってこの国は……彼女が、咲が立つまでにもう随分と苦しみ抜いた。

    一握りが富を得る狂った構造をずっと続けてきたが、

    それを許さなかった天が、彼女をこの国へと授けたという事なのだろう。

    111 = 96 :

    だから、根負けしたように智美は固く発していた空気を解くと苦笑を浮かべる。

    智美「主上の言う通りだと思います。私は…、いえ私個人としても、貴方を助けたいとは思っているから」

    それを聞いた咲は、顔を緩めると智美に向かって綻ぶように笑った。

    淡い色彩ではあるけれど、それが窓より差し込む光に溶けていくようで。

    ああ、いいな、と思うと同時に釣られるよう智美も笑みを深くする。

    いつか、こんな暖かい気持ちに溢れた国になればいいと思う。

    王だけでなく、官吏だけでなく、民の一人までもが全て……気持ちよく笑える国になればいい。

    そのために、眼前に立つ王だけは守らねばなるまい。

    ところで、ふと気付く。

    智美「そういえば…」

    「はい?」

    この後の予定は執務になるはずだから。

    部屋まで送り届けて尚且つ、仕事の手伝いをするのが智美の役目だが。

    咲が纏めた荷物を智美が持った所で。ふと落とした言葉に反応するように咲が顔を向ける。

    その朱色の瞳と視線が合ったのを確認すると智美は続けて言った。

    智美「主上は今日、台輔にお会いになりましたか?」

    何気なく尋ねた智美がそう言った瞬間、ビクリと咲の体が震えた。

    そんな仕草を智美が見逃すはずも無い。

    事実、先程までの咲の穏やかな雰囲気は立ち消えて、むしろ堅く身構える気配に智美は眉を潜めた。

    112 = 96 :

    そして、そんな自分が抱いた疑問を咲もすぐにわかったのだろう。

    本当に、眼前の少女は頼りなさそうに見えて、実際は聡いのだ。人の機微にも良く気付いている。

    そんな彼女がぎこちなくではあるが言葉を返してきた。

    「え、と。朝に……様子を見に来てくれました」

    智美「はあ。じゃあ、きちんと顔は出してるんですね…ならよかったです。何を話したのか、お伺いしても?」

    「………」

    なにせ、智美は実質、台輔の菫の命で咲に付いていると言っても過言では無い。

    彼女らの遣り取りを知っておけば、なにかと動きやすくもなるのだ。

    だから、と。智美は目の前の王より続く言葉を待っていたが。

    ……なにか、とても歯切れが悪い。

    智美「主上?」

    訝しい声で呼ぶと観念したように、咲は言葉を返してきた。

    「あの、話という話は……何も」

    智美「……何も?」

    まさか、と思わず智美は言い返すが咲はそうなのだと頷く。

    「私も口下手な方なので…本当は色々と話したいことは考えているんですが。目の前にしてしまうと、どうも…」

    とても言いにくそうな咲の言葉。

    いやいやいや、王だけのせいではあるまい。

    王が言い出せぬのであれば、その半身である麒麟が気遣えばいいのだ。

    けれど、それすらもなかった様子を智美は悟る。智美は再び天を仰ぎたくなった。

    113 = 96 :

    なんてことだ、やっぱり菫の不器用さだけが誤解されて伝わってしまっている。

    初期の頃の対応の差なのだ。

    無意識であれ身構えられてしまっている事に、きっと一番堪えているのはあの麒麟の少女だろうに。

    呆れて、吐き出しそうな息をぐっと飲み込み……口元を緩めると、智美は問う。

    智美「あの。主上は…台輔が苦手ですか?」

    すると、びっくりしたように咲は目を見開いた。

    例えるならば、そんな事を言われるのを予想してなかったみたいに。

    だから、お、と智美は意外に思う。

    事実、咲は首を左右に振って言葉を返してくる。

    「苦手とかそんなんじゃないです。まだ浅い付き合いですが彼女の真面目な所とか、自分自身に厳しい所は尊敬しています」

    「けど今の私では、彼女と釣り合わない気がして…毅然とした彼女を目の前にすると、どうしても気後れしてしまうんです」

    智美「………」

    「だから、頑張ります。智美さんが言ってくれたように。きちんと勉強して、色んな事を見て、聞いて……」

    「彼女が、菫さんが認めてくれるような王を、目指しますから」

    智美「主上」

    ああ、やばい。

    智美は素直な咲の言葉を聞きながら。

    今はきっと自分の執務室にいて不貞腐れているだろう麒麟の少女を怒鳴りつけてやりたい気分に駆られた。

    だって今、咲の素直な気持ちを聞かねばならなかったのは智美ではない。

    なによりもその悩みを聞き、支えなければいけないのは…王の半身である麒麟でなければいけなかったはずだ。

    なんでここにいないんだ菫ちん!と。素を曝け出して智美は心中にて菫を罵る。

    114 = 96 :

    彼女らの間に入る智美は、互いの躊躇が勘違いだと咲の言葉を聞いて気付けたが。

    知らぬ菫なんかは、咲に嫌われていると思っている。

    だから朝に咲の様子を見にいっても深く踏み込めないし、声を掛ける事もできない。

    躊躇して勝手に落ち込んで、その空気を無意識であれ咲も感じ取り気後れしている。

    なんて悪循環。

    不器用な半身同士なのかと、智美なんかは思ってしまうが。

    ため息は幸せが逃げていく…落としたいのを懸命に堪えて、まずは彼女らの誤解を解く事から始めねばと思った。

    そうでなくとも頼りないと見られがちな咲を侮り、奸臣は媚を売り繋がりを持とうと躍起になっている。

    王と麒麟がぎこちない関係などと知られたら奴らの付け入る隙を与えるかもしれない。

    本当に、やるべき事はたくさんあった。

    「智美さん?」

    名を呼ばれ、ハッと現実に気付く。

    顔を向けると、不思議そうに自分を見返している咲の姿があって。

    反射的に明るい笑顔を浮かべると「何でもないです」と智美は言葉を返した。

    まずは、今日の予定を終わらせよう……咲と今日の分の執務を終えたら、

    酒を持って菫の所に突撃して、説教してやる。

    そう心に誓いながら、智美は荷物を持つと「行きましょう、主上」と声を掛けたのだった。



    ■  ■  ■


    115 = 96 :

    今回はここまでです。
    次はまた金曜日に投下予定です。

    >>98
    ありがとうございます。そう言って頂けるだけで書く意欲が湧いてきます。

    117 = 98 :


    続き楽しみにしてる

    118 :

    乙 すれ違い切ないね

    120 :

    すばら!これも主従の定めか
    ここから色々と乗り越えていくと思うとワクワクするよ乙

    122 :

    おつおつ
    不器用vs人見知りだねえ…間に入れるワハハはほんと適任だわ

    123 :

    照だけは絶対に出さないでください。
    マジお願いします

    124 :

    対立煽りっすか?ご苦労さん
    NGぶっこんどきますねー

    125 :

    おつ
    次回も楽しみです

    126 :

    智美「十分に、身辺にはお気を付け下さい」
     
    そう智美に言われた言葉を咲とてよく覚えている。

    智美「端からは華美に見える宮中は、今や恐ろしい所なのです」

    そう言った彼女の言葉を最近、咲も痛感している。

    ましてやこの身は学も無く、見た目も弱々しく他者の目に映るのだろう。

    朝議にて玉座に座った時に、安堵と侮りを持って下段より数多の官吏の目に見上げられたのをよく覚えている。

    今まで臆病に生きてきた自分だったから、様々な感情が含んだ視線に晒されて無様にも足元は震えていた。

    それでもそんな自分を自覚して、せめて数多の目より震える足元を終始隠し通せたのは

    あの時、広い朝議の間の中で自分は一人ではないのだと咲には分かっていたから。

    形式的な儀礼や奏上など長い時間だったが。

    その間ずっと自分の後ろに付き添っていたこの身の半身の存在に、挫けそうな気持ちは支えられていた。

    ちらり、と横目に見上げた時も相も変わらず背筋を伸ばし凛と佇む姿に、咲の身も心も引き締まったのを良く覚えている。

    見縊られてはならぬ、と気持ちを振り絞ってあの時、顔を上げた。

    127 = 126 :

    かつての自分は生まれてからずっと一人だと思っていたから、

    臆病だったのだと思いたい。けれど今は違うのだ。

    出会ってからずっと半身の気難しい顔しか見てないけれど、

    それでもその表情が緩んだ時に、この身を気遣うようにして揺れた瞳を知っている。

    その時に自分は初めて誰かに必要とされているのだろうか、と生まれて初めて思った。

    それが時を経た今では一国に必要とされているのだと理解した時には驚いたけれど。

    ならば、自分には分不相ながら王という役割に挑戦してみても良いのではないか。

    そう思えるようになっていた。

    まだ過去の臆病さを忘れた訳ではない。

    けれど孤独だったあの頃とは違い、この身を助けてくれる人達がここにはいる。

    少し前の自分では到底、考えられなかった状況だけれど。

    128 = 126 :

    今日は十二国のうちの一国、雁州国の王と麒麟が揃ってここ才州国の新王である咲に会いに訪れていた。

    「遠路はるばるお越し頂きまして…」

    「あらあら。固い挨拶はなしで良いのよ」

    「私達は隣国同士やけんね」

    深々と頭をさげる咲に雁州国の王、略して延王である霞と同国の麒麟である哩が気さくに微笑みかける。


    雁州国は、霞が王となってから既に500年も続いている大国である。

    そんな国の王を目の前にして、咲はあまりの恐れ多さに縮こまっている。

    「ふふ。どうか楽にしてちょうだいな、采王」

    「そ、そうは言いましても…」

    「采の新王は謙虚なお人柄なのね」

    おろおろとする咲に霞はひとしきり笑って、咲に告げる。

    「でもようやく四州国のなかの一国が落ち着いてくれて良かったわ」

    「何せ残りの巧州国と恭州国は、現王同士の仲が悪いせいか諍いが耐えんとね」

    「そうなんですか?」

    周りの国には疎い咲が、きょとんとして2人に尋ねる。

    129 = 126 :

    「塙王洋榎と供王セーラは何故か互いを好敵手扱いしていて、何かと争ってばかりなのよね」

    「はぁ…大変ですね…」

    他国でも色々とあるんだなあと、咲は呟いた。

    「采王はまだ他の国のことについてはあまり知らないようね」

    「は、はい。自分の国のことで手一杯で…勉強不足ですみません」

    恐縮して頭をさげる咲に、霞はふふと笑みを浮かべる。

    「まだ即位して日が浅いですものね」


    十二国のうち四大国、四極国、四州国とに分けられる。

    四大国に分類するのは慶東国、範西国、奏南国、柳北国の四国。

    四極国に分類するのは戴極国、漣極国、舜極国、芳極国の四国。

    そして四州国に分類する才州国、雁州国、巧州国、恭州国の四国。

    この十二国それぞれに、神籍を持つ王とその麒麟が存在する。


    「何か分からないことがあったら、遠慮なくいつでも聞いてちょうだいね」

    「私達に答えれる範囲でなら、いくらでも教えてやるけん」

    「はい。ご親切にありがとうございます」

    咲は再び深く腰を折って、大国の王と麒麟に感謝の意を示した。



    ■  ■  ■

    130 :

    この1週間長く感じた…いつも金曜になってすぐ更新してくれて嬉しい
    にしても霞さんと哩とは意外な組み合わせ

    131 = 126 :

    内殿の人気の無い廊下を歩きながら、咲は無意識に苦笑を浮かべた。

    もはや夜半に差しかかろうという頃合。

    今日一日も執務と勉学とを終えた咲の日課は、

    こうして自由になった時間に内殿の奥にある書房に篭る事だった。


    十分に、身辺にはお気を付け下さい。


    智美の言葉が再び脳裏に過ぎる。

    彼女は咲に出歩く際には自分を呼ぶか、信頼の置ける者を必ず付き添わせろと言っていたけれど。

    ここ数日通っているが人と擦れ違う事もなかったし、

    国作りに精を傾ける周囲にいらぬ手間を掛けさせたくもなかった。

    だから、今日も今日とて一人きりで目的の書房の扉へと辿り着く。

    音を立たせずに扉を少しだけ開けると、その隙間より体を中へと滑り込ませる。

    そして、開いた扉を閉めるとすぐ横の棚の上に置かれていた燭台に火を灯した。

    その灯りを中心に、照らされるたくさんの書架が並ぶの光景がある。

    ……本当に、この光景を見るだけで咲の胸の内は熱くなった。

    下働きをしている時、商家の使いで小学を訪れた際に

    子供達が色々な本を広げている様子を羨ましく思ったのを覚えている。

    好奇心だ。あの中にはきっと色んな世界が書かれているのだろう、と。

    132 = 126 :

    書架の前を歩き、何冊かの本を手に取ると更に奥に置かれていた机へと向かう。

    その上に火の灯った燭台を置き、持ってきた本を脇に置くと、その中の一冊を机の上で広げた。

    商家で簡単な読み書きと計算は覚えていて、今では先生からの師事により難しい単語や言葉も理解している。

    ある程度の本は咲一人で読めるようになっていた。

    知識は必要だ。無知であるがために様々な官吏より物事を言われ、採決を求められようとも、

    今の咲にはどれが良くてどれがいけない事なのか判断が付かない。不安に押し潰されそうになる。

    今は智美が側にいて手伝ってくれてはいるが、

    いつかは自分の裁量で物事を決められるようにならなければいけないだろう。

    そうでないと、侮られる。ここは怖い所なのだと彼女は言っていた。

    事実、何もできぬ王だと言われ、決め付けられたらきっと見た目も弱々しい咲の言葉など誰も聞いてくれなくなる。

    それでは王でいる意味がないだろう。

    かつての自分のような力無い存在を無くすと咲は心に決めたのだ。

    それに自分は元より、自分を助けてくれる周囲の人々すら侮られるのは我慢ならない。

    だから、誰に何を言われても正しい判断ができる自信が欲しい。

    あの凛とした延王のように、力強く国を導く存在になりたい。

    灯りに照らされた文字を一心に追う。すると周囲の些細な物音でさえ耳に届かなくなる。

    本は色んな世界があるのだと咲に教えてくれていた。



    ■  ■  ■

    133 = 126 :

    内殿の奥にある書房へと続く薄暗い廊下に複数の足音が響く。

    夜の静けさに反する荒い足音は、その主の心境を現しているかのようだった。

    なぜなら事実、男は焦っていた。

    宮中に官吏として上がったのはもう何年も前の事で。

    その時にも、多額の金とコネと駆使して今の地位を手に入れた。

    それから今までの月日の間に甘い汁を吸ってきたと思えばあの時使った大金など塵にも等しいだろう。

    そして、それはこの先も変わらぬはずだったのだ。

    この国には長く王が不在だった、だから王はいないものとしての宮中の仕来りが出来上がっていた。

    自分もその慣例に従い、コネと賄賂とで今の地位にいるが……

    つい先日、宮中にて青天の霹靂が起きたのだ。

    とうとうあの無愛想で融通の効かない麒麟が、天意を得て選定した王に従い姿を現した。

    後に周囲より聞いた話では自分だけでなく多くの官吏は何も聞いていなかったという。

    呆然と下段より上段を見上げる先に坐する王たる少女を見上げながら、まず不安に駆られたのは

    今までの宮中にあった自分達の自由が効く仕来りがそのまま通用するかという事だった。

    自分だけは無く、自分に便宜を計ってくれた上官や同僚なども戦々恐々としている。

    彼らと同様、今更処罰されるのも甘い利権を手放すのも考えられない事だった。

    134 = 126 :

    ならば、まだこの宮中の仕来りも何も知らぬ王を引き込んでしまえばいい。

    上官よりそう言われた言葉に光明を見た気がした。

    確かに思い返してみても、上段の玉座に坐する王である少女は聞いた歳の割には線が細く、頼りなく見えた。

    強気に引き込めば案外すんなりとこちらの意に従ってくれるのではないかと考えたのだ。

    ただ、そんな自分達の考えを読まれたかのように、件の王は滅多に内殿より姿を現さなくなった。

    朝議には出てくるが、その際は半身たる麒麟の少女か

    王の出現により自分らと袂を別った官吏らが必ず側に付いている。

    それが原因で自分達からは悪目立ちするようになった官吏が一人いた。

    あの裏切り者、新米でまだ若く人の良さそうな笑顔をいつも浮かべていた少女。

    命じた事には素直に従い、他人との間に波風を立たせた事も無かった。

    反抗心など微塵も見せなかったはずなのに。

    こうなってしまって気付くと、奴はちゃっかり麒麟たる台輔の右腕として収まっていた。

    しかもあの頃は、ただ使い勝手が良い便利な奴でしかないと見縊っていたが。

    本性を現してからはほとほと手を焼いている。

    浮かべる笑みは変わらないのに、返す意見が正論で辛辣なのだ。

    慈悲と偽善とを煩く言ってきた台輔の言葉を更に現実味を乗せて奏上もしてくる。

    まさか、あんなに頭が切れる奴だと思っていなかった。

    135 = 126 :

    それで、罪悪感を思い出し自分達を見限ろうとする官吏達も増えてきた。

    このままでは近い将来に身の破滅は見えている。

    もう形振り構っていられなかった。

    こうなれば、王たる少女より自分達に対する安全の確約が欲しい。

    情に訴えてもいい。それにまだ月日は浅いから、

    言い包めればあの裏切り者よりも自分達の言葉を信じるかもしれないではないか。

    いや、信じさせねばいけない。

    そのために大金を使って、内殿の天官、数人抱き込んだのだ。

    奴らから、最近の王は一日の執務を終えると奥にある書房に一人篭る事も確認済みだ。

    ならばその時に直接訴えるしかない。

    なにより、自分達を守るためだ。


    人気の無い廊下を足音荒く走り抜ける。

    薄暗い視界の向こうに、奥にある書房の扉が薄っすら見えた。

    胸の内が、酷く急いた。

    だがその瞬間、少し先の床が不自然に波打つ。

    まるで水面に波紋が走るよう、コポリと水音が響く……と同時に獣の唸り声が聞こえた。

    ビクリと体が震えて自分を含めた周囲の荒い足音がその場で止まった。

    目を凝らし薄暗い廊下の先を見る。

    すると波打った床より何か……大きな体躯が這い上がってくる様が見えた。

    136 = 126 :

    こんな内宮の奥で…有り得ない猛獣の姿。

    しかも暗闇の中六つの紅い瞳が爛々と輝き、それだけでも眼前に現れた猛獣が只の獣ではない事を悟る。

    妖魔だ、と苦々しく口元を歪める。

    脳裏にあの無愛想な麒麟の少女の姿が浮かぶ。

    きっと彼女の使令に違いないと気付いて腸が煮え繰り返った。

    本当にあの麒麟は綺麗事ばかり抜かしていつもこちらの邪魔ばかりする。

    この先に進みたいが……現れた妖魔はギラギラ敵対心を向けてそこから動かない。

    自分を含め周囲の人間はもはや、突如として姿を見せた猛獣の姿に怯えてしまっていた。

    睨み合ってから数秒、背後にいた一人が短い悲鳴を上げて逃げ出すと後は雪崩だった。

    情けない、と思いながらも再び薄暗い廊下に響いた獣の唸り声を聞き、

    結局自分は振り返って逃げ出した。

    妖魔が追ってくる気配は無かった。

    今日は失敗には違いない。……ただ簡単に諦める訳にはいかなかった。

    今に、今に見てろと。男は唇を噛み締めながら薄暗い廊下を走り続けた。

    137 = 126 :


    去っていく人の気配が感じなくなるまで、妖魔はその場に留まっていた。

    どれくらい時間が過ぎただろうか、六つの瞳を徐に瞬きさせると周囲に撒き散らしていた警戒を解いた。

    もはやこの薄暗い廊下に人の気配は感じない。

    ペロリ、大きな舌を出して鼻先を舐めるとゆっくりとした動作で振り返った。

    そのままのそり、のそり、廊下の先まで四足で歩く。

    すぐに奥に行き当たり……そこにあった扉の前に辿り着くと頭を上げて室内の気配を探った。

    きちんと人の気配をある事を確認してから扉の前に重い腰を降ろす。

    そのままに体躯も曲げると、扉の前を陣取るようにして丸くなる。

    部屋の中より、まだ物事を終える気配を伺う事はできなかった。

    そうして丸めた体躯に頭を乗せて六つの瞼を閉じてからどれくらい経ったか。

    何かを感じて、閉じていた瞼がピクリと震えた。

    頭を上げて瞼を開く。……すると、薄暗い廊下の向こうより誰かがここへと近付いてくる。

    先ほどの粗野な雰囲気を纏った輩が戻ってきたのだろうかと警戒したが。

    見えた姿と感じた気配に、抱いた警戒はすぐに霧散した。

    言葉も無く六つ目で、主人である台輔の長身の姿を見上げる。

    彼女は、書房の扉の前を守るよう身を丸めていた使令の姿を見て何があったのかをある程度悟ったようだ。

    気難しげに眉間に刻まれていた皺が深くなる。そして、そのままに書房の扉へと視線を向けた。

    そんな台輔の仕草を見届けてから、自然に、扉の前に陣取っていたこの体躯を少しだけ脇に移動させる。

    当り前のように、台輔は開けた扉の前へと足を進める。そのまま僅かに扉を開けて彼女は中へと入っていった。

    パタン、と扉が再び閉められてから。誰もいなくなった薄暗い廊下を六つ目で一瞥する。

    そうしてまた扉の前へと移動すると、重い腰を床に降ろし体躯を丸めて瞼を閉じたのだった。



    ■  ■  ■

    138 = 126 :

    菫が書房の中に入ると、書架が立ち並ぶ暗い通路の奥より燭台の明りが漏れているのが見えた。

    角を曲がると、奥に置かれている机に向かい座り込む王の背が見えた。

    机の上には何冊もの本が積み重なっていて、脇に置かれた燭台の炎が微かな空気の流れの変化からか揺れている。

    なぜかいつまで経っても動かないその背を不審に思い近付いて行く。

    あと2、3歩程の所で……微動だにしない姿の理由が分かった。

    机に向かう姿の頭が必要以上に真下に垂れている。

    覗き込むよう身を屈めると、俯いたその顔は翳っていて瞼は閉じられていた。

    机の上には読んでいた途中の本が開かれたままになっている。

    本の文字を追い掛けている内に、生まれた眠気に抗えなかったという事なのだろう。

    「…………」

    そんな姿になぜか興味を抱き、言葉を掛けるでも無く観察するように見つめる。

    彼女がここ数日、空いた時間に書房に通い詰めている事を聞いて気にはしていたけれど。

    こうして直にその様子を目の辺りにして見れば、その姿勢を嬉しいと感じている。

    だって、この人は努力をしてくれている。

    智美に言われたが、この人にしてみれば全く違う世界に突然にも放り込まれたようなものなのだという。

    与えられた権限と地位は確かに誰よりも高いが、それに伴う責任も果てしなく重いはずだからと。

    ただ、玉座に坐したという幸運に浮かれるのでは無く。

    そこにある責任を誰よりも重く受け止めて、悩み、こうして少しでも理解しようと僅かな時間を削って頑張っている姿に

    半身である菫が心を動かさないはずがないではないか。

    139 = 126 :

    だから、疲れて眠ってしまった姿を見つめていて心中に生まれてくるのは申し訳ない、という気持ちと。

    だがこの人が主でよかった、という強い想いだ。

    麒麟として生を受け、生涯を共にする見た事もない王に対して一度も不安を抱かなかったとは言えば嘘になる。

    けれどこの国のために、民のために……寝る間も惜しんでこうして頑張っている、

    彼女の姿を確認できれば過去の不安は杞憂でしかなかったということだ。

    だからいつだって、菫は主に対して助けてやりたいという 気持ちを持っている。

    今だってもし咲がこうして書房に篭もる前に、菫に手伝って欲しいと一言くれれば、喜んで付き合っただろうに。

    疲れ果て一人眠ってしまった姿も、自分が一緒だったなら僅かな時間も放置しておかなかったはず。

    些細な事なのかもしれないけれど。……やっぱり、自分を頼りにして欲しいとは思う。

    こんな菫の葛藤を智美なんかは、素直に気持ちを伝えればいいじゃないか、と軽く言ってくれるが。

    それができれば、菫とてこんなに悩んでいない。もはや自分の性分なのだ。

    じっと見上げてくる朱い色の瞳を見下ろせば、心中に滲む緊張から何も言えなくなってしまう。

    しかも、これ以上嫌われたくないという怖気が更に菫から言葉を奪ってしまうから。

    憮然とした表情しか反応を返せない自分は、多分、この主にいらぬ心配を掛けている。

    違うと伝えたい、嫌ってはいない、苦手にも思ってない。

    むしろ、誰よりも心を寄せているのだと伝えたい。

    今だって、こんな感じで眠っている姿にならば側に寄っていけるし、冷静に考える事もできるけど。

    あの朱色の瞳に、意志を持ってじっと見つめられると……どうにも緊張して駄目だ。

    無意識に、菫は息を吐く。机の上に置かれた燭台の炎が揺れた。

    140 = 126 :

    蝋はもはや残り少なくなっていて、すぐにでも明かりとしての効力を失うだろう。

    それを一瞥した菫は、徐に燭台に顔を近づけると灯る炎に息を吹きかけ消す。

    仄かに明るかった室内は一瞬にして暗闇に包まれた。

    それでもこの暗闇に視界が慣れてくれば、窓より差し込む月明かりのお陰である程度周囲の様子は分かる。

    とりあえず疲れて眠ってしまった主をこのままにしてはおけないだろう。

    座ったままの体勢でもあるし、朝を迎えたら体を痛めてしまうかもしれない。

    菫は咲へと腕を伸ばし、その背を支え、膝裏に差し込むとそのまま苦も無く抱き上げた。

    そのまま踵を返し数歩歩いた所で、無意識に、片眉が訝しげに上がる。

    なぜなら抱き上げた体躯が想像するよりも軽く感じたからだ。

    月明かりだけに照らされた主の顔を見下ろす。

    ここへ連れてきた時に比べれば血色も良くなり、体格も彼本来のものに回復してきたと思う。

    けれど、菫と比べて格段に劣る体躯である事には変わりない。

    この華奢な体躯で、菫は元より自分を含めたこの国をこれから支えていくのか。

    体躯を抱えなおしながらどこか身が引き締まる想いがした。

    麒麟として選んでしまった責任から?いや、麒麟とか王とか関係なく。

    この国のために懸命に努力しようとしてくれる彼女を、自分が支えてやりたいのだと本心より思ったからだ。

    書房の扉の前に立つと、自然とその扉が開く。

    どうやら扉の前でここを守っていた使令は出てこようとする自分らの気配を敏感に悟ってくれたらしい。

    開いた扉の隙間を通り抜けると、また扉が静かに閉まる。

    その裏にいた獣の姿が菫を見上げると、六つ目が穏やかに瞬きした。何もありませんでした、という意思表示と受け取る。

    そう菫が理解して頷き返すと、六つ目の獣は頭をこちらに向けて垂らしたままにその体躯が床の下へ除々に沈んでいく。

    その姿が完全に床にできた水面へと吸い込まれていってしまったのを確認してから。

    菫は徐に踵を返し路寝へと向かったのだった。


    ■  ■  ■

    141 = 126 :

    智美「内宮の奥に関る者だけでも綺麗にしないとやばいな」

    智美の声に、昨日あったことを伝え終えた菫は頷く。

    「使令の話では5,6人いたそうだ。数が多い、おそらく天官だけではないな」

    智美「ああ、外から手引きした奴がいる。…菫ちん、内宮を纏める内宰は人格者だと言ってなかったか?」

    「私はそう思っている。…過去に仁重殿の人事についても、私の意向を酌んでくれたからな」

    「明確な理由があって通す筋より大きく外れなければある程度は許容してくれる。それに賄賂や不正といったことも嫌ってたと思う」

    ふむ、と智美は顎に手を当てて考え込む。

    智美「……心変わりしたか。それとも、内宮の官吏全てを掌握してないのか…」

    「後者ではないか?以前より、この宮中では人格者は煙たがられる」

    「それでも内殿の内宰に収まり続けていたのは今までここに主上がいなかった事と、政局からは遠ざかっていたからだ」

    智美「まぁ。話は分かるな……けど、新たな王が立った事で遠ざかっていた政局に野心が生まれたんじゃないか?」

    智美「菫ちんが信じたいのは分かるけど、違うんだって言い切れないのは……わかるよな?」

    「…………」

    智美の言葉を聞いた菫は暫し押し黙る。

    彼女の言いたい事が良くわかったから。王が選ばれたことで今の宮中は必要以上に慌しくなっている。

    昨日までは当たり前だったことが、今日には様変わりしていることだって十分に考えられるのだ。

    ただ、菫も理解している。

    智美が心配する通り、王である少女にこの先、何かしらの危害が及ぶ事だけは絶対に排除しなければならなかった。

    使令は付けてはいるが、万能では無い。

    なにより居住するこの場所だけでも、安全を当たり前にして過ごして欲しいと思うのは間違っていないだろう。

    智美「私は顔を合わせた事ないけど……内宰って名前はなんていうんだ?」

    問われ、菫は思考を中断させると脳裏に一人の官吏の姿を思い浮かべる。

    不正が蔓延る宮中の中にあって、随分と落ち着いて自らの考えを譲らぬ女性だったのが強く印象に残っている。

    だから、その名前を菫はすぐに思い出した。

    眼前の席に座り、じっと菫の返事を待っている智美へ「内宮を仕切る内宰は、塞という天官だ」と伝えた。



    ■  ■  ■

    142 :

    よっしゃこれはシロや

    143 = 126 :

    今回はここまでです。見て下さった方ありがとうございます。
    夜にまた続きあげに来るかも。

    144 :


    日が変わってすぐ更新してくれるのは有難いわ

    145 :

    乙 霞さんが延王か

    146 = 130 :


    洋榎とセーラんとこの麒麟が気になる

    147 :

    乙乙

    148 :

    すばら乙
    組み合わせに囚われてないのにキャラ崩壊してると思わせないところが特に凄いな

    149 :

    配置は原作と違うのかな?

    150 :

    乙!
    塞ボンは最大級に信頼を置ける人物の一人だな
    なんもかんも政治が悪いの人だったらやばかったww


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