元スレ永琳「あなただれ?」薬売り「ただの……薬売りですよ」
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251 = 243 :
(な…………に…………?)
そして研ぎ澄まされ過ぎた耳は、ついに――――
堕落へ誘う運命の声をも、拾ってしまいます。
その声は――――紛れもなく”穢れ”の混じった声でした。
(地球は…………青…………かった…………?)
そして穢れた声は、一言――――こう言いました。
【だが神はいなかった】
「あ”あ”あ”あ”あ”――――」
レイセンの心は、ついに限界を迎えました。
【亥】
252 = 243 :
風呂
253 :
寝る
続きは明日
254 :
乙乙
255 :
乙 楽しみ
256 = 253 :
レイセン「何とかかんとか号……なんだっけな。ちょっとその辺うろ覚えだけど」
レイセン「でも、あたしはその時確かに聞いた……あれは紛れもなく、穢れ人の声だった」
薬売り「地上の人々が長年の時を経て、ついに月へと踏み出す術を編み出した……」
【飛躍】
レイセン「それは同時に月に穢れが振りまかれる事を意味していた」
レイセン「月の根底を揺るがす大事件だと思った……でも、誰もあたしの話を聞こうとしなかった」
(――――本当よ! 穢れ人が月にやってきた――――聞いたのよ! 声を!)
(――――このままじゃ月まで穢されてしまう……! お願いよ! 速くみんなに知らせて!)
レイセン「当然よね。だって、あたしが言った事だもん」
レイセン「穢れ人は頭も穢れてるから原始人同然の生活をしている。だからあいつらは、ずっとあのままなんだ。ってさ……」
(――――こんな事してる場合じゃないのに……なんで……なんでだれも…………!)
薬売り「ましてやその時の貴方は」
レイセン「呂律もロクに回ってなかったでしょうね……あんときゃあたし、完璧にアル中だったしね」
レイセン「それに案の定、ハッキリと聞こえたわ」
(――――嘘なんか……言ってない……!)
レイセン「内緒話のつもりだったんでしょうけど……”レイセンは精神に支障を来たしている”。そんな噂話が、そこかしこからね」
薬売り「因果な物です」
レイセン「本当にね……本当に……”因果応報”って感じ」
【因果ノ鎖】
257 = 253 :
レイセン「月が穢されれば、当然そこにいるあたしも穢れてしまう」
レイセン「月が死ねば、当然あたしも死んでしまう」
薬売り「しかしどこにも逃げ場はなかった」
レイセン「目をそらし、なかった事にすらできなかった」
薬売り「だから、乱した」
レイセン「全ての逃げ道を塞がれたあたしが、逃げれる場所は、ただの一つしかなかった」
(――――ハハ…………なんだぁ…………)
(――――最初から…………こうすればよかったんじゃ~ん…………)
レイセン「あたしの中に――――切り落とされた”眼”だけが、溜まっていった」
薬売り「逃げたのは……自分自身から」
258 = 253 :
その瞬間、レイセンを蝕んだ全ての病状は、一気に成りを潜めました。
震えは止まり、足は直立を取り戻し、口はかつてのような饒舌を存分に捲し立てます。
久しぶりの健康は、なんとも言えぬ格別の気分でした。
この心を満す軽やかな爽快感は、まるでお酒をたくさん飲んだ時のようでした。
(…………行こう)
そうしてしばらくの爽快に浸った後。
レイセンは、なんだか急に、ぴょんぴょん飛び跳ねたくなりました。
それは、足が動く喜び……とかじゃなく、ただなんとなくそうしたいだけでした。
レイセンはまず、イチニ・イチニと軽い体操をしました。
その後に、スゥーっと大きく息を吸いました。
「ハァ――――……」最後に、吸った息を全て吐き戻しました。
――――と、同時に。
【警報】【警報】【警報】【警報】
【警報】【警報】【警報】【警報】
【警報】【警報】【警報】【警報】
【警報】【警報】【警報】【警報】
【脱走・狂気之兎】
259 = 253 :
レイセンは、縦横無尽に駆け巡りました。
牢屋同然の病室から。
新たな飼い主から。
幾度となく通ったあの建物から。
そしてついには――――生まれ育った、月の都から。
(不思議ね……あんなに怯えていたはずの、地上の青が……)
元々月の番人だったレイセンにとって、追っ手を振り切る事など造作もない事でした。
どの兎もレイセンの足には到底追いつけず、また仮に先回りできた所で、やはりレイセンの力の前にはなす術もありませんでした。
そうして、あれよあれよと都の中心から離れていくレイセン。
中心・郊外・僻地・最果て――――そしてあっという間に、辿り着きました。
(今は……希望の色に見える)
そこは――――産まれて初めて足を踏み入れた場所でした。
月の者が「表側」と呼ぶ、真っ新な大地だけが、そこには広がっていたのです。
260 = 253 :
(………………静か)
月の表側は、それはそれは静かでした。
レイセンにとっては初めての経験です。
レイセンの耳を以てしても、何も聞こえない”真の静寂”が、そこにはあったのですから。
(何にも…………聞こえなぁ~い…………)
静寂は、全ての音をかき消しました。
今頃必死になって探しているであろう追っ手の声。
自分の噂話をしているであろう月人の声
心配しているであろう飼い主の声。
部屋の中で聞こえた、穢れ人の声。
そして――――”自分自身の声”すらも。
(………………まぁ)
月の表側は、もう一つ、とある法則がありました。
それは「全てが軽くなる」事です。
足元の小石を少し蹴とばしただけで、石はまるで、土煙のようにどこまでも漂っていきます。
ふわふわと心地よさそうに浮いていく小石を見て、レイセンはふと思いました。
この場所で、この何もかもが浮つく静寂の場所で――――
もしも、自分の脚で、”思う存分跳んだなら”。
(気持ち…………よさそ~…………)
レイセンは、何も考えていませんでした。
本当に、何も考えていませんでした。
考える声も、月で過ごしたたくさんの思い出も、自分が最も恐れた顏さえも。
脳裏によぎる全てが、目の前の単純な好奇心に上塗りされていきます。
(何やってんだ―――― や め ろ ! )
何も聞こえませんでした。
何も見えませんでした。
だから跳びました。
だから跳べました。
それが――――穢れた地への落とし穴だとも、気付かずに。
261 = 253 :
メシ
262 :
一旦乙
263 :
レイセン「そうして兎は自分から穴に落ち、二度と這い上がってこれませんでした……」
レイセン「めでたし、めでたし……ってか?」
薬売り「おや……終わりですか?」
レイセン「何よ、なんか文句あんの?」
かつて幾度となく陥れ、あまつさえ姫君にまで手を掛けた玉兎。
その自身による行いが、八意永琳を一人の鬼へと変えようとは、さすがの玉兎も思ってもみなかったであろう。
そして玉兎は逃げ出した……自分の目に入る、全てから。
薬売り「いえ……てっきり、”落ちた後”も続く物だと思っていましたので……」
レイセン「あー……後日譚? 別に言っても良いけど、死ぬほどくだらないわよ」
その結果――――
自身が最も恐れた”鬼”と再び会いまみる事となるとは、これまた因果なものよの。
薬売り「折角ですから……是非」
レイセン「まぁ、じゃあ……なんでこいつがこんな所で薬師見習いなんてやってるかなんだけど……」
レイセン「わかる?」
薬売り「はて……薬師の道を志したからでは?」
レイセン「違うわよ。本音はこう――――」
レイセン「――――”怖かったから”よ。鬼に目をつけられないようにね」
薬売り「ああ……なるほど」
身共も似たような経験がある故な。その気持ちはよ~くわかるぞ。
運無き者が出くわすと言う山の獣――――熊。
あの巨体から生える、鋭い牙や桑のような爪ときたらそれはもう……
いやはや、まっこと恐ろしや。
一度睨まれれば、体の芯から硬直してしまうあの感覚。
できるならば、もう二度と味わいたくないものよの。
レイセン「自分が過去にしでかした事が、バレるのが怖かった……あたしにとって、八意永琳は鬼でしかなかった」
レイセン「だから下ったの。師匠と仰いで従順な”フリ”さえしてれば、とりあえず矛先は向かないだろうってね」
薬売り「その場凌ぎ……ですね」
そうそう熊と言えば、皆の衆にも是非知っておいて貰いたい事がある。
誰が言ったか「熊と出会ったら死んだふりをするとよい」との教え。ありゃ嘘っぱちじゃ。
熊の目の前で横たわったが最後。
熊はおぬしらをエサと認知し、あわや食われる運命を辿るのである。
レイセン「ね? 下らないでしょ。NGシーンはバッサリカットよ」
レイセン「終わりよければ全てよし……の逆」
レイセン「クソみたいな終わり方すると、”全部が台無しになる”」
では真に正しき対処法は何か――――それは「目を合わせる」事じゃ。
目をそらさず、じっと見詰めながら、決して騒ぎ立てず、徐々~に徐々~にと後ずさる。
こうすれば「拙者は危害を加える生き物ではござらんよ~」と、熊にそう知らせる事ができるのじゃ。
熊はああ見えて賢き獣。相手が無害とわかると、むやみに襲ってきたりはせぬのだよ。
264 = 263 :
レイセン「そーよ、こいつはいつだってそう。何も考えずに思い付きで動いて、何もかもを台無しにするの」
レイセン「今だってそう。こんな夜中にここにいるのが何よりの証拠…………」
レイセン「こいつは、永琳と再会した時点から――――”逃げる事しか頭になかった”」
そして根気よく距離を取り続け、十分離れた頃合いを見計らって――――”脱ッ”!
……何? 真偽に欠けるだと?
おやおやおや、一体何を申すかと思いきや。
身共がこうして無事な身でいる事こそが、真たる何よりの証ではないか。
レイセン「モノノ怪がみんなを匿っている? バカ言わないで。匿ってるのはお前だけだろ」
レイセン「薬師になって人の病気を治す? ふざけないで。治したいのは自分だけだろ」
レイセン「いつだって可愛いのは自分だけ……いつだって、守りたいのは自分だけの癖に!」
そこまで疑うなら、自ら実践してみるとよいわ。
まぁおぬし等のような平民風情の場合……ふふん。
そもそも、山へ登る前に力尽きる気がするがの。
レイセン「さぁ薬売り――――これでわかったでしょ!?」
レイセン「あたしの形・真・理! 必要なもんはこれで全部見せたわ!」
レイセン「今こそ、その退魔の剣を抜く時よ! そして――――斬って!」
レイセン「かわいいあたしを二つに分ける、この境をさ!」
【懇願】
265 = 263 :
レイセン「さぁ…………」
【急】
レイセン「さぁ…………!」
【求】
レイセン「さぁ…………はやく…………!」
過去の恐れから目をそらす為に生れ出た、悲しきもう一羽の玉兎。
その分身が、語らぬ主の代わりに囃し立てる。
「速く斬ってくれ――――」
この分身がこうまでして望む事。
それはただ、一つに戻りたかっただけなのだ。
うどんげ「…………」
人は、どうしようもなく追いつめられた時。無意識の内にもう一人の自分を作ることがあると言う。
身共からすればやや眉唾物の話ではあるが、しかし薬売りにとっては存外によくある事なのだとか。
それは薬売りとしてではない。
モノノ怪を斬る者として、”実際に経験した事のある”話……らしい。
レイセン「 は や く し ろ ! 」
266 = 263 :
薬売り「…………」
内なる玉兎の心意気をしかと見届けた薬売りは、あえて返事を出さぬまま、無言のまま退魔の剣を突き立てた。
チリンと剣の音だけが小さく鳴る。
剣越しに見る分身の表情は、札を寄せ集めた仮の体にもかかわらず、「どこか嬉しそうな表情に見えた」。
後にそう、薬売りは語っておった。
薬売り「…………では」
して本来の玉兎の方は、未だ何も語らぬまま、膝を地に押し黙ったままであった。
いや、この場合……むむ? 何やら、わけがわからなくなってきたぞ?
この場合……”どっちが本当の玉兎”なのだ?
うどんげ「…………」
まぁ、よいか。
そんな事は後数刻もせずにわかる事。
答えは薬売りの行動にある――――故に、ただ待てばよいのだ。
薬売りが、事を起こすその時まで。
退魔の剣「――――!」
そして――――薬売りは動いた。
(……………………は?)
薬売りが出した答えは――――”剣を懐にしまう”であった。
【鈴】
267 = 263 :
本日は此処迄
269 :
二次設定のはずなのに妙に説得力があるのはなんでだろう
270 :
レイセン「…………何してんの?」
薬売り「何って……刀をしまっただけですが」
レイセン「いや、しまっただけですがじゃなくて……ふざけてんの?」
薬売り「ふざけてなどいませんよ……話を聞けとおっしゃるから、聞いたまでです」
レイセン「……真と理がいるっつったのは、お前だろーが!」
薬売りは退魔の剣を袖の奥へとしまい、そしてそのまま、二度と表へ出す事はなかった。
「道具をしまう」。それ自体は至極些細な行動ではあるが、それをされて鼻持ちならないのは当の玉兎本人。
当然の如く猛った玉兎が、薬売りにあーだーこーだと怒涛の罵詈雑言を浴びせ始めるのは、ごくごく自然な成り行きであろう。
そしてその全てを、右から左へ受け流す薬売り……
全く、人の悪さは相変わらずじゃな。
だったら最初から、そう言ってやればよかったのに。
薬売り「斬りませんよ……貴方はね」
レイセン「――――はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?!?!?」
その場にこそいなかったが、何となしに想像はつく。
どうせその時の薬売りはまた、いつぞやのような見下した顔つきをしておったのだろうて。
なんだか……想像しただけで、段々とムカッ腹が立ってきたぞ。
くぅ~憎らしや。腹いせに「薬売りは玉兎の叱責に怯え、動く事ができなかった」。
とりあえずこの場は、そういう事にしておこう。
【放棄】
271 = 270 :
レイセン「人の話を聞かない奴だとは思ってたけど……まさかこの期に及んでまだ、そんな態度かましてくるとはね!」
薬売り「何をおっしゃいますか。ちゃんと聞いたじゃないですか……」
薬売り「貴方の、真と、理とを」
レイセン「だからそれは剣を……ああっ! い、イラつく!」
レイセン「ほら、あんたも黙ってないでなんとか言いなさいよ! 今あたしら二人、まとめてコケにされてんのよ!」
わざわざ内から這い出てまで、二羽共々コケにされるとは……この内なる玉兎も、よもや露も思わなかったであろうて。
確かに、聞いてくれと頼んだのは玉兎の方である。
だがその経緯は、薬売りが「退魔の剣を抜く条件」を、あらかじめこうこうこうと伝えておいたが故であろうに……
やれやれ、どこまでも厚顔無恥な奴よ。
そうでもなければ、誰がこんな面妖な薬売りに”過去”を語るものか。
薬売り「それに……先ほどから話を聞けだのとおっしゃりますが」
薬売り「その言葉……そっくりそのまま、お返ししますよ」
レイセン「は……?」
薬売り「だって……ねえ? つい先ほど、申し上げたばかりじゃないですか……」
薬売り「斬るのは――――”幕が閉じてから”だと」
クシャリ――――まるで薬売りの言葉に合わせるように、微かな擦音が過った。
音の感じからしてそれは、何か薄い物同士が擦れ合う音である。
してこの場における薄き物とは、現状ただの一つしかない。
薬売り「芝居の準備はできましたか……”姉弟子様”」
レイセン「ウソ…………!」
そう――――紙である。
この内なる玉兎が、薬売りから借りた札を折り紙に変えたのと同じく、外なる玉兎もまた、同じ事をしていたのだ。
「さっきまで呼吸に苦しんでいたとは思えない」と、薬売りは密やかにそう零した。
夜分深くにも関わらず、見る者を思わず感嘆させる程に――――
それはそれは見事な”紙の兎”が、玉兎の手元に出来上がっていたそうな。
272 = 270 :
うどんげ「カッ、カッカッ……カ……」
レイセン「鈴……仙……なんで……」
薬売り「おや、まだうまく話せませんか……?」
レイセン「か……が……か……」
薬売り「いいでしょう。ならば代わりに、口上を務めましょう」
レイセン「鈴仙…………何を…………」
立ち上がりし玉兎は息も絶え絶えに、見るからに満身創痍であった。
未だ言葉もロクに話せぬままであったが、それでもその意思は十二分に感じ取れたと言う。
不自由な言葉の代わりとでも言おうか……その眼だけが、しかと伝えておったのだ。
薬売り「ここから先は……”客は一人でイイ”」
薬売り「ですね? 姉弟子様……」
うどんげ「か……が……」
二つに分かれし御身の、”真なる理”である。
薬売り「こなた、月から舞い降りし兎あり」
薬売り「こなた、月を見あげし兎あり」
レイセン「何を――――」
薬売り「こなた、鬼に怯えし兎あり」
薬売り「こなた、鬼に居所を求めし兎あり――――」
――――同じ身を持ち、同じ心を宿したとて、目指す標は決して同じではなく。
違えし標に駆けたとて、いつしか戻るは元の鞘。
それは、現世が孤を描く故。
輪廻転生の如く、永久にめぐるが運命が故――――
【鈴仙の半生・第四幕】
273 = 270 :
(ふんふんふ~ん……)
昔々、ある所に、一匹の兎がいました。
兎は兎らしく、跳んだり跳ねたり、たまに耳をツンと立てて何かを聞いたりしていました。
傍から見るとただの兎です。といっても、兎はそこに住まう兎ではありませんでした。
兎はその実、遥か遠い土地からやって来た、所謂迷い兎だったのです。
(…………ぬおっ!? なんだこりゃ!?)
見知らぬ地にアテなどあるはずもなく、兎はただただ迷い続けました。
兎は兎らしく跳んだり跳ねたりしているかと思いきや、実は右往左往しているだけだったのです。
しかもその間、まともに食事もとっていませんでした。
当然です。他所から来た兎には、何が食べれる物かすら、わからなかったのですから。
(え、ええ~……こんな所で土座衛門とか……)
そんな日々を送っていた兎には当然、すぐに限界が訪れました。
パタリ――――糸が切れた人形のように倒れ、そのままピクリとも動かなくなりました。
しかしながら、兎は動けないながらも、ハッキリと感じました。
(もしも~し、人間や~い)
(人間…………人間?)
「死ぬ」――――何をどう考えても、それしかありませんでした。
しかし兎は、死を拒むどころか、無抵抗なままに受け入れようとすらしていました。
それは自分の不摂生のせいでもあり、自分が健康を顧みなかったせいでもあり、自分がしでかした罪のせいでもある。
「自分が死ぬのは当然の事」。兎の心には、そういった考えが根付いていたのです。
(いや、違うわね……ていうか、これ……)
(…………兎?)
しかし運命は、兎に死を与えませんでした。
死に限りなき近い状態でありながら、それでも寸での所で回避できたのです。
――――偶然そこに居合わせた、もう一人の兎の手によって。
274 = 270 :
メシ
275 :
――――兎が再び目を開いた時、その瞳には視界いっぱいに天井が映っていました。
空を覆う黒塗りの壁。月を隠す天の蓋。
なのに何故か天井は、あの星々の煌めく夜空に負けず劣らずの、実に優雅なる天井でした。
(お、起きたかぁ)
(いやぁびっくりしたわ。まさか幻想郷に、あたし以外の妖怪兎がいたとはね)
わけもわからぬまま、ぼーっと美しい天井に見とれていると、横からひょっこりもう一羽の兎が顔を覗かせました。
今でもその時の顏はハッキリ覚えています。
その時のもう一人の兎の顏は、こちらを見て、何故かニヤニヤと笑っていたのです。
(どこの誰だか知んないけど、ラッキーな奴ね。よりにもよって、医者の近くで倒れるなんてさ)
(もしかして……”急患”狙ってた?)
どこか嘲りを感じる、気持ちの悪い不気味な笑顔でした。
おかげで美しい天井を眺めるのに、とても邪魔だった事を、今でも鮮明に思い出せます。
(まぁそういうのを見かけたら見つけ次第拾ってこいって言われてるわけなんだけど……)
(近頃はそれを逆手にとって、わざと迷い人のフリする奴なんかでてきちゃってるのよね)
(あんたも……そのクチなわけ?)
それでも、嫌悪感はありませんでした。
兎は直観で理解したのです。
この体を包むぬくもりに、額に乗った冷たい布綿。
「この兎が、自分をここまで運んでくれたのだ」と理解するのに、時間はさして必要ありませんでした。
(て~わけで、目を覚ましたら呼べって言われてるから、呼んでくるわね)
(ちゃんとお礼言うのよ……”お上りさん”)
しかしながら、代わりに兎の正体に気づくまでには、随分と時間がかかりました。
と言うのも――――兎の正体は、運び手だったのです。
それは荷を運ぶのではありません。
兎が運ぶのは、運命そのものだったのです。
(――――鈴仙……)
知らなかったのかわざとだったのか、それは今でもわかりません。
しかし兎は、本当にそっくりそのままの意味で運んできました。
息も絶え絶えだった兎の前に――――永遠を生み出す「師」を。
276 = 275 :
レイセン「――――な、何を今更なのよ!? そんな事、言われなくても知ってるわよ!」
レイセン「そうよ……その時、よりにもよってあの永琳と再開してしまったせいで、あたしはいつも怯える日々を送るハメになった……」
レイセン「知らないはずないじゃない! だって、あたしはあんた、あんたはあたし!」
レイセン「いつも同じで、いつも同じ過去を送ったんだから!」
薬売り「……フッ」
レイセン「 何 笑 っ て ん だ ! 」
薬売りの失笑に、敏感に反応する兎。
その嘲りたっぷりの笑みは、怒りに値するのは重々承知である。
しかしそれは誤解である。
薬売りの笑みは、あくまで自分の記憶に向けられたものであったのだ。
薬売り「いや……失敬。少し、思い出しまして……」
レイセン「何を……だよ……」
薬売り「同じ時を過ごそうと、同じ景色を見ようと……互いの胸の内にあるものは、決して同じではなく」
レイセン「意味わかんねえ……んだよ!」
まぁだからと言って、時と場所を選べと言う話ではあるが……
余計な茶々は往々にして場を崩す。
それは雰囲気だけではない。
この場合に限っては、文字通り崩れるのだ。
薬売り「それに……あまり茶々を入れない方がイイ」
薬売り「無駄に間延びさせると……最後まで、聞けないかもしれませんよ?」
レイセン「ハ――――」
――――そっくりそのままの意味で。
レイセン「ちょ…………!」
【剥】
レイセン「あ、あたしの体が……!」
【剥】
レイセン(崩れていく――――!?)
277 = 275 :
薬売り「貴方様とて不本意でしょう……? 噺の途中で、消えてしまうのは」
レイセン「まさか……これが……!」
うどんげ「そう……して……体を……治した……兎は……」
薬売り「まぁまぁ、じっくり聞こうではありませんか……ひょっとしたら、わかるかもしれませんよ?」
薬売り「貴方が…………一体”誰”なのかを」
うどんげ「再会した……お師匠様と……姫に……」
レイセン「やめ――――」
――――こうして兎は、予想だにしない形で、かつての飼い主と再会しました。
元の飼い主……元い八意永琳は、兎との再会に涙を浮かべて喜んでいました。
兎にとっても、久しぶりに見る永琳の姿は、幸せだったあの頃のままでした。
変わらないのは姿だけではありません。
月にいた頃から有名だった薬師の手腕は全く衰えておらず、その証拠に、弱り切った兎の体をたった一晩で治して見せました。
レイセン「ろ――――」
健康を取り戻した兎は、改めてその脚で永琳の元へと向かい、そして今度こそ誓いました。
「ずっとおそばにいます、お師匠様」――――その言葉は、嘘偽りない本心でした。
【忠誠】
278 = 275 :
そこは、かつての故郷に比べれば、随分と質素な場所でした。
巻割り、かまど、徒歩、収穫……等々、まさに文明のぶの字もない、原始的な生活そのものでした。
けれど不満はありませんでした。
不自由だらけな生活なのに、何故か、心からの自由を感じていたのです。
いつしか兎は、自らの意思で永琳にこう言うようになります。
「自分もあなたのような薬師になりたい」――――こう述べる兎に、永琳は快く受け入れました。
永遠を生み出す師の元で、永遠の一部となる弟子として。
レイセン「違う……あの時弟子入りを志願したのは……ただのその場凌ぎだった……」
レイセン「逃げ出す為に咄嗟に思いついたでまかせ……薬師なんて、ほんとはどうでもよかったはず……!」
薬売り「と、思っている割には、随分と熱心に勉強されてましたね……」
薬売り「夾竹桃なんて……薬師じゃなければ、ただの花なのに」
レイセン「なッ…………!」
正式に弟子として入門し、いくつの時を経たでしょう。
かつて、あれほど拒み続けた地上の生活が、いつしか兎にとって、なくてはならない物となっていました。
変わらない日々、変わらない生活。いつまでも変わらない永遠亭――――。
けれど、兎にとっては、それこそが幸せだったのです。
変わらなくていい。
「この幸せがいつまでも続きますように」。
いつしか兎の心は、その思いだけが全てとなっていきました。
レイセン「そんな……なんで……なんでよ……鈴仙……」
レイセン「あんなに怯えていたのに……あんなに、目を背けていたのに……!」
薬売り「だとすると……これはあくまで……ひょっとしたらの話なのですが」
薬売り「もしかすると……”逃げ出したのは貴方の方”だったのでは?」
レイセン「は――――」
けれどやっぱり、永遠なんて所詮儚い幻想でした。
永遠の意味が「変化のない様」だとすると、やっぱりそんなものは存在しないんだと、兎は改めて思い知りました。
よくよく考えれば当然でした。「過ごしたい永遠」と「成りたい薬師」。
この二つは、変わると言う意味に置いて、全く正反対の物だったのですから――――。
【矛盾】
279 = 275 :
(あたた……もう……てゐの奴……)
(毎日毎日懲りずに……一体、何が楽しいのかしら……)
兎の毎日はほぼほぼ決まっていました。
朝起きて、用事を済ませ、人里に薬を売りに行く。
合間に余った時間を勉強に費やし、食事の支度をし、掃除をし、夜になれば床につく……そんな日々でした。
そして目を覚ませば、また最初から繰り返しです。
(ほんと……いつまでもバカなんだから)
時には疎ましい時もありました。
特に、毎度毎度落とし穴を仕掛けてくるバカのせいで、随分まぁ無駄に頭へ血を上らせたものです。
ですが――――穴に落ちる度に、兎は感じました。
痛む尻。猛る声。穴から這い上がろうとする手。そして、穴から空を見上げる目……
「自分はまだここにいる」。そう感じさせる程度に、穴は、繰り返される日々の中に走る生の刺激だったのです。
(お師匠様に……言いつけてやるんだから)
ですが、兎が穴から空を見上げるのと同じように――――
空から穴を見下ろす瞳があった事を、兎はすっかり忘れておりました。
280 = 275 :
(何よ……これ……)
そんな日々が続いた後――――つい、こないだの事です。
兎の元に、一枚の手紙が届きました。
差出人の書いていない、出所不明の手紙でした。
ですが、兎は手紙の主が誰であるのか、ただの一目でわかりました。
【召集令状】
手紙の材質。封の切り方。中身の文字。その文体。
全てが一致していました。
かつて故郷にいた頃の――――”二人目の飼い主”とです。
【此度 都カラ逃亡セシ兎
ソノ行為ハ甚ダ遺憾ナレド 結果トシテ功績トナリキ故 此レヲ持ッテ全テヲ不問トス
此度ノ所業 都ガ与エシ任ト置キ換エ 現時刻ヲ持ッテ ソノ任ヲ解カン】
(ふざ…………けンな…………!)
兎は確信しました。
かつて大罪を犯し、月から逃げ出した姫と師。この二人が、ついに見つかったのだと。
【長キ間ノ任 真大義デアッタ
最早汝ヲ縛ル物ナシ
直ニ”迎人ヲ寄越ス”故 此レヲ持ッテ 直チニ都ヘト帰還セヨ】
そして罪人を見つけ出した月の使者が、次にどのような行動を起こすのか……
それはもはや、想像すらしたくありませんでした。
(何を…………今更なのよ…………)
(何を…………今…………更…………)
してその原因が――――全て、自分のせいである事も。
【意訳】
【――――お前は逃げられない】
281 = 275 :
薬売り「なるほど……あの紙は、その時の手紙ですか」
レイセン「……知らない」
薬売り「月人にとって兎とは純粋なる配下。故にその管理も徹底していた……」
薬売り「と言いつつも、一体どのような手段で見つけ出したのかまでは存じません」
レイセン「知らない……」
薬売り「ですがまぁ、大体の想像は尽きます」
薬売り「だって貴方……”特別”だったんでしょう?」
薬売り「月の注目を一手に集める……”人気者”だったのだから」
レイセン「――――知らない! 知らない! そんな手紙、見た事もない!」
レイセン「あたしじゃない! それはどこか別の誰かの……あたし宛なんかじゃない!」
レイセン「あたしじゃない! あたしじゃない! あたしじゃない! あたしじゃない!
あたしじゃない! あたしじゃない! あたしじゃない! あたしじゃない!
あたしじゃない! あたしじゃない! あたしじゃない! あたしじゃない!
あたしじゃない! あたしじゃない! あたしじゃない! あたしじゃない!
あたしじゃない! あたしじゃない! あたしじゃない! あたしじゃない!
あたしじゃない! あたしじゃない! あたしじゃない! あたしじゃない!
あたしじゃない! あたしじゃない! あたしじゃない! あたしじゃない!」
薬売り「やれ、やれ……」
その手紙が指し示すように、あくる日、見るからに胡散臭い一人の男が現れました。
その胡散臭い男は自称・薬売りを名乗り、「自分はモノノ怪を斬る為に馳せ参じた」と言いました。
ハッキリ言って、全く信用できませんでした。
ですが、信用せざるを得ませんでした。
何故なら、兎にとって最も信頼する人が、信用した男だったのですから――――。
【丑】
282 = 275 :
本日は此処迄
283 :
乙ですよ
284 :
レイセン「嘘よ……そうよ、こいつは”また”嘘をついている!」
レイセン「だってそうじゃない! あたしが斬られれば、あたしに封じ込めた”嫌な事”も全部元に戻ってしまう!」
レイセン「騙されないでちんどん屋! こいつはまたこうやって……嘘八百でこの場を凌ごうとしてるのよ!」
薬売り「何故嘘と……わかるんです?」
――――何から何まで一切信用できない薬売りでしたが、一つだけ、本当の事を言ってました。
それは、”本当にモノノ怪が現れた”事です。
モノノ怪は次から次へと周りの人々を攫います。
にもかかわらず、薬売りは未だモノノ怪を斬れずにいました。
レイセン「”そーゆー奴”だからよ! 最初に言ったでしょ!」
レイセン「こいつはいつだって嘘ばかり……出まかせと口八丁でその場を凌ぐしかできない、ただの兎なんだから!」
薬売り「では何故……嘘をつく必要があるんです?」
薬売り「嘘であろうとなかろうと……結局、”剣は抜けないまま”だと言うのに」
レイセン「それは…………!」
全く頼りにならない、本当にうさんくさいだけの男です。
が、そんな役に立たない薬売りのおかげで……一つだけ、気づく事が出来ました。
薬売り「そういえば……最初にお師匠様がおっしゃってましたね」
(――――だったら出て行きなさい)
薬売り「ある意味……師の命を忠実に守ったと言えますが」
それは――――「逃げる事」。
モノノ怪がこの地で暴れまわっている間に、逃げて、逃げて、遥か遠くに逃げて――――
”月の迎えを永遠亭から遠ざける事”。
それが今の自分にできる事なのだと、そう思いました。
285 = 284 :
レイセン「ふざ…………け る な ァ ァ ァ ァ ! こいつがこんな事、思うはずなんてないんだ!」
レイセン「いつだって自分だけが可愛い臆病兎! この機に逃げ出そうとしている逃亡兎!」
レイセン「それ以外に――――一体何がある!」
逃げた先に、一体何があるのか。
逃げた先に、どのような運命が待ち受けているのか。
兎には皆目見当が付きません。
もしかしたら、今よりずっと酷い目に合うかもしれません。
レイセン「それ以外に……ない……はずなのに……」
ですが、それでもかまいませんでした。
心から愛した永遠が、この先も保たれるなら。
永遠が永遠のまま、ずっとそこにあり続けるのなら……
例え自分がどうなろうと、何ら悔いはありませんでした。
薬売り「…………」
そうして兎は、逃げ出しました――――永遠を守る為に。
めでたし、めでたし。
薬売り「以上……ですかな」
ご清聴、ありがとうございました。
【――――拍手】
【拍手】【拍手】【拍手】【拍手】
【拍手】【拍手】【拍手】【拍手】
【拍手】【拍手】【拍手】【拍手】
玉兎の物語は、これにて終わった。
自らの生涯を題材にした物語はまさに納得の出来栄えであり、その証に、薬売りもつい自然と拍手を送る程であった。
身共とて、ついつい引き込まれてしもうわ。さすがは元・月の達者兎と言った所である。
堕落と転落を繰り返した半生だけあって……話の結末すらも、無事落としたのだ。
【余韻】
286 = 284 :
薬売り「いやぁ、貴方も人が悪い……この期に及んで、こんな素晴らしい話を出し惜しみするだなんて」
薬売り「やっぱり、ちゃんとあったんじゃないですか……落ちた後の、続きが」
薬売り「……おや」
しかしそんな素晴らしい話に、余韻を乱す”不服”を唱える者が、一人だけおった。
その物言い屋は、声高らかにこう訴えた。
「話が違う――――」
……なにやら、あらぬ誤解を招く表現である。
その言い方だと、まるで玉兎が、この物言い屋から話を盗作したかのようではないか。
レイセン「なんで……! なんでこうまで違う……!」
【別個】
レイセン「同じ……兎なのに……!」
【異同】
「同じ……”レイセン”なのに……!」
まぁでも……そんなわけはないのだ。
盗作か否か等、真偽を確かめるまでもなくわかる事。
何故ならば、幕を開いたのも兎。
語り始めたのも兎。聞いていたのも兎。
不服を唱えるのも兎。実際に体験したのも兎……
全ては、同じ兎による物なのだから。
【画然為る兎】
287 = 284 :
レイセン「あってたまるか……そんな事……ざけんな……ふざけんな……」
薬売り「…………」
芝居・歌舞伎・能・芸事――――
これらの見世物を楽しむ際には、やってはならぬ無作法が、一つある。
それは、不平不満を吹聴するかの如く唱える事である。
「つまらなかった」「時間のムダだった」
そう思うのは各々の勝手じゃ。だがそれを聞かされる周りの身にもなってみよ。
せっかくの余韻が台無しとなる……
まさに「終わりよければ全てよし」の”逆”である。
レイセン「クソ脚本……ゴミ脚本……ホラ話……与太話……」
レイセン「勝手にオチ変えてんじゃないわよ……カス……死ねよ……マジ……」
薬売り「…………」
作法と言うより、行儀だな。
このレイセンを見よ。このような負の言葉を延々と聞かされる不快さは、まさに筆舌に尽くし難しであろう?
隣に佇む薬売りも、まぁ災難である。
これでは、余韻に浸る暇もなかろうて。
薬売り「そういえば……前からずっと気になっていた事がありまして」
レイセン「あ”……?」
薬売り「よい機会ですから……お伺いしても、いいですかな?」
……こいつに限っては、そんなタマではなかったの。
【疑問】
288 = 284 :
薬売り「貴方の名は鈴仙……それは周知なのですが……」
薬売り「そういえば……一人だけ、違う名で呼ぶ者がいましたな」
(――――すごいわうどんげ、とっても斬新だわ!)
薬売り「後弟子として、姉弟子様の名を知らぬのは、これまた失礼な話……」
薬売り「故に……お聞かせ願いたい」
薬売り「貴方は……”一体どちら”なのでしょう」
【レイセン】【うどんげ】
289 = 284 :
レイセン「うどんげ……そうだ、うどんげだ!」
レイセン「これこそがこいつが嘘ついてる何よりの証拠じゃない! だって、あたしに無断で勝手に改名しやがったのよ!?」
薬売り「無断……?」
レイセン「自分は鈴仙じゃない、うどんげだ」
レイセン「だからレイセンなんて知らない――――とでも、言いたかったのよ!」
レイセン「これこそ自分から目を背けたこいつの、何よりの証拠じゃない!」
薬売り「しかしどちらかに統一されず、両方の名が使われるのは何ゆえに」
薬売り「人は貴方を鈴仙と呼び、兎は貴方をうどんげと呼ぶ」
薬売り「これではただ……ややこしいだけだ」
それは、簡単な話でした。
(――――これが……あたしの名前……?)
(――――いや、嫌とかじゃないんだけど……なんか……変な名前)
誰かに、与えられた名だったからです。
レイセン「 嘘 つ く な ! 」
291 = 284 :
レイセン「そ……んな……嘘……よ……」
レイセン「だったら……あたしは……ずっとこいつの中にいた……あたしは……」
レイセン「こいつの”恐れ”を押し付けられ続けた……あたしは……一体……」
【問掛】
【我は誰なるや】
レイセン「――――カッ! カッ! カッ! カッ!」
薬売り「大丈夫ですか……随分、声が乱れておりますが」
レイセン「カ……カ……カ……」
兎の声が、乱れ始めた。
声はまるで喉を詰まらせたように濁り、音は乱れ、あれほど悠長であった声は瞬く間に咳と化した。
カッカッカと、まるで笑い声のような咳である。
が、薬売りはなんら不思議に感じなかった。
そりゃそうじゃ。それと全く同種の物を、つい先刻聞いたばかりであったが故な。
薬売り「咳がひどい場合は、体を横にするといい……喉の奥が広がり、息が通りやすくなりますから」
うどんげ「――――もしくは、暖かい飲み物を飲むといい。乱れた気管を、ぬくもりが落ち着けてくれるから」
薬売り「おや……まぁ……」
薬売り「随分と……お詳しいですな」
レイセン(レイ……セン……)
うどんげ「当然よ……”あたしを誰だと思ってんの”」
【薬師・見習】
292 = 284 :
薬売り「最初から……知っておられたのですね……」
薬売り「自分の中に……”もう一人誰かがいる事”を」
うどんげ「なんとなくは気づいてた……でも、確信はなかったの」
うどんげ「だって、いくら呼びかけても……ずっと、無視され続けてたからね」
薬売り「それは……いけませんなぁ」
レイセン「カ…………ッ!」
人はだれしも、思い出したくない記憶があると言う物よ。
何らかの失態を犯した時。人前で大恥をかいた時。誰かに裏切られた時。身の毛もよだつ恐怖を感じた時――――
それらを自在に忘れる事ができれば、一体どれほど、楽な事であろうなぁ。
だが口惜しい事に、生きとし生ける物は、残念ながらそのようにはできておらぬのだ。
うどんげ「呼びかけても答えてくれない。面と向かっても目を合わせてくれない」
うどんげ「だから、わからなかったのよ……自分の中にいるのが、一体誰なのかを」
うどんげ「あたしの中にいたのは……”あたし自身”だった」
故に生き物は、そうせざるを得なかった。
苦しい過去を糧にするしかなかったのだ。
過去の苦痛を経て、新たな存在に再生せんとする道。
まさに修験が唱えし「疑死再生」の道――――。
その道を選んだが故に、生き物は、今日における多種多様な存在に枝分かれしていった……のかもしれん。
293 = 284 :
薬売り「過去が置き去りにされたのではなく……過去の方が、自ら遠くへ逃げたのだ」
うどんげ「それはあたしを守るため……新しい兎になったあたしを、過去に縛り付けない為」
兎が真に恐れる物――――それは、「見つかる」事ではなく「見つかってしまった」事にあった。
紆余曲折を経てようやく得た安住の地が、再び亡き者になる恐怖。
そして自身の進む道を照らしあげてくれた大恩に、意図せず仇成す形となった恐怖。
薬売り「過去は決して変わる事がない……それは、当の過去自身が深く存じていたから」
うどんげ「だから……知らなかったんだわ」
薬売り「兎が、真に恐れる物を」
枝分かれせしもう一人の兎が、存じ上げぬのも無理はない。
もう一人の兎とは、すなわち”月にいた頃”の兎。
そして今の兎が取ろうとする行動は、過去の兎の理とは、まるで反転する”陰陽”だったのだから――――。
【真相】
【玉兎之理】
294 = 284 :
うどんげ「面倒かけたわね……薬売り」
薬売り「いえいえ滅相もない……」
薬売り「…………おや」
レイセン「カ…………カ…………!」
うどんげ「レイセン……」
薬売り「まだ……抗うと言うのですか」
真実を突き付けられてなお、もう一人の兎は、抗う姿勢を崩さなかった。
過去を否定すると言う事は、すなわち過去の自分をも否定すると同義。
自分の存在そのものを乱す「否定」。
ともすれば、自身を守るために……如何に苦しかろうと、拒み続けるしかなかったのであろう。
レイセン「う”ぞ…………だ…………カッ! 認め”……ナ”イ”…………!」
薬売り「致し方……ありませんな」
しかしながら、もはやレイセンに術はなし。
抗う気持ちと裏腹に、どうにもできぬ現実が、すぐ目の前に迫っておる。
追いつめられた鼠は、時として猫を噛む事もあるらしいが……
はたしてそれが兎だった場合――――”逃げる”以外に何ができると言うのか。
うどんげ「待って薬売り……”レイセンは置いていかない”」
薬売り「残念ながらその命は聞けません……貴方も、薬師の端くれならわかるはず」
薬売り「これはもはや……完全なる末期。このまま放置しておけば、”直にモノノ怪と化す”のは目に見えている」
薬売り「そうなる前に手を打つのが、この場における最善なのですよ」
うどんげ「…………」
薬売り「異論は……ありませんね?」
うどんげ「…………わかった」
兎は鈴仙を一瞬庇おうとしたものの、薬売りの問いかけに、存外素直に身を引いた。
兎は、理解していたのだ――――鈴仙は今、”モノノ怪になりかけている”。
自らあふれ出る程の強き情念。してその発生源が他ならぬ自分自身とあらば……
兎に異を唱える権利など、ありはしなかったのだ。
【決着】
295 = 284 :
本日は此処迄
296 :
自分と向き合うのは辛いよな
299 :
もしかしてのっぺら意識してる?
300 :
レイセン「殺す”のガ……アダジを……?」
【急場】
薬売り「いやぁ、楽しませてもらいました……」
薬売り「さすがは元・月の人気者。あっしもついつい、最後まで聞いてしまいましたよ……」
【打込】
レイセン「姉弟子ノ”……ア”だジヲ”……?」
【後手】
薬売り「しかし肝心の貴方自身がわかっていなかった……何故に貴方の芝居が人を魅力するのか」
薬売り「それは……全てが真であったが為です」
レイセン「ア”…………?」
薬売り「わかりますか……? ”真”があったからこそ、貴方の織成す芝居は、鮮やかな色々に染め上がったのです」
【六死八活】
薬売り「それ故に……勿体ない。最後の最後で、”芝居は色を失った”」
”昨日今日会ったばかりのお前に何がわかる”――――兎は濁った声で、そう吠えた。
確かに、赤の他人に知った風な口を聞かれる事ほど不快な物はないよの。
それもそれも、見るからに胡散臭い男の、あからさまに見下した口ぶりとあらば……
ったく、まっこと度し難い。
何故にあやつは、ああも人の気を逆立たせるのやら。
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