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元スレ【宇宙開発】こうのとり2号機 ISSにドッキング完了=HTV、2機連続成功
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>>101
自称日本人の自称宇宙ファン様は相手したらダメ・・・
自称日本人の自称宇宙ファン様は相手したらダメ・・・
>>97
自称動物愛誤主義者の皆さんは、黒幕が日本の発展を阻害するのが目的のプロ市民団体だからね~
自称動物愛誤主義者の皆さんは、黒幕が日本の発展を阻害するのが目的のプロ市民団体だからね~
>>103ならば黒くて可愛くないドブネズミでも載せるか
>>97
ねずみ乗っける装置どっかが開発中なんだっけ
ねずみ乗っける装置どっかが開発中なんだっけ
使用済みのHTVを廃棄せずにISSにどんどん付けたら
ISSが広くなって良いのに・・・なぜしないの?
ISSが広くなって良いのに・・・なぜしないの?
>>120
NASAの立場がなくなるから
形上はNASAが主体だから、NASAより目だってはだめ
日本独自でステーション作るなら、そのような手法が普通に使える
シャトルを作ったら廃棄物の処理も可能となる。
NASAの立場がなくなるから
形上はNASAが主体だから、NASAより目だってはだめ
日本独自でステーション作るなら、そのような手法が普通に使える
シャトルを作ったら廃棄物の処理も可能となる。
HTVの設計寿命短いしISSにひっつける場所限られてるしごみ運び出して燃やさないと駄目だし
まあ、HTVの技術をほぼ実証できたし
これができるなら自前でステーションも組める
あとは、有人飛行技術を実証するだけだな。
これができるなら自前でステーションも組める
あとは、有人飛行技術を実証するだけだな。
このクラスの宇宙船をつかったミッションって 人間を運ぶ有人飛行ぐらいしかないだろう
>>127
ちゃんとロードマップぐらい読め。
ちゃんとロードマップぐらい読め。
>>130
66みたいな飽きっぽい人は無視していいかと。
66みたいな飽きっぽい人は無視していいかと。
HTV 素晴らしい!
今後も地道な努力でミッション成功実績を積み上げていってください!
一度の成功と10回の連続成功では意味が全然違う。
HTVてなんで60日しか飛べないの?
プログレスやATVは200日でしょ?
プログレスやATVは200日でしょ?
>>136
役目を終えれば長々とくっついている必要は無いし
それに応じた設計をしている。
プログレスやATVはISSリブーストに使ったりもするので
具体的には例えばあの金ピカのポリイミド製耐熱材が酸素原子で劣化しやすい
ATVみたいな白いの使えばもっと寿命延びるってJAXAの人が言ってた
役目を終えれば長々とくっついている必要は無いし
それに応じた設計をしている。
プログレスやATVはISSリブーストに使ったりもするので
具体的には例えばあの金ピカのポリイミド製耐熱材が酸素原子で劣化しやすい
ATVみたいな白いの使えばもっと寿命延びるってJAXAの人が言ってた
>>136
プログレスやATVは、ISSの補助エンジンの機能があるから半年の寿命が必要なだけ。
HTVにはその役割は無いから、そんな長期間滞在する必要がない。
その分、安く軽く作れて、ATVに遜色ない搭載量を達成できている。
単なる役割分担と効率の問題。
プログレスやATVは、ISSの補助エンジンの機能があるから半年の寿命が必要なだけ。
HTVにはその役割は無いから、そんな長期間滞在する必要がない。
その分、安く軽く作れて、ATVに遜色ない搭載量を達成できている。
単なる役割分担と効率の問題。
補助エンジンとして使うってのなら補助でなく主エンジン用の燃料をHTVで持って行けば
同じ役割を果たせるのではないだろうか。
まあ、求められてないんだろうけど。
同じ役割を果たせるのではないだろうか。
まあ、求められてないんだろうけど。
>>140
それはロシア用のドッキングポートじゃないと無理じゃないかな
それはロシア用のドッキングポートじゃないと無理じゃないかな
>>140
そもそも、ATVやプログレスには、燃料補給用のパイプラインがある。
いずれにせよ、ISS前方(アメリカ側)に接舷するHTVには、
ISS後方(ロシア側)の推進系に関係する必要性がない。
何で60日?
→リブーストを担当しないから
→じゃあ燃料補給
既に意味不明になってるよw
そもそも、ATVやプログレスには、燃料補給用のパイプラインがある。
いずれにせよ、ISS前方(アメリカ側)に接舷するHTVには、
ISS後方(ロシア側)の推進系に関係する必要性がない。
何で60日?
→リブーストを担当しないから
→じゃあ燃料補給
既に意味不明になってるよw
キリンで氷結のHTVデザインを出さないかな。
商品パッケージやCMで映像を使えば、JAXAにはデザインの使用料が入るし、キリンは売上アップ。
H2Bの三菱重工、HTVの三菱電機、氷結のキリン、すべて三菱グループなので企業体の強化にもつながると思う。
商品パッケージやCMで映像を使えば、JAXAにはデザインの使用料が入るし、キリンは売上アップ。
H2Bの三菱重工、HTVの三菱電機、氷結のキリン、すべて三菱グループなので企業体の強化にもつながると思う。
日本のロケット開発および宇宙進出
1935年糸川英夫が東京帝国大学工学部航空学科を卒業し、中島飛行機に入社。九七式戦闘機・一式戦闘機隼(はやぶさ)・二式単座戦闘機鍾馗(しょうき)などの開発に関わる。
1941年糸川英夫が東京帝国大学助教授に就任。
1944年第二次世界大戦中B29迎撃のために、大気の薄い高々度での飛行が可能で、上昇力の強い迎撃機としてロケットエンジン搭載の戦闘機の開発を始める。
当時のレシプロ機は上昇に時間が掛かり、大気が薄い高高度ではプロペラの効果が下がるうえ、酸素不足によりエンジンの燃焼効率が落ちる欠点があった。
短時間に急上昇が可能で、大気中の酸素を使用しないロケットエンジンなら、迎撃のための短時間戦闘であれば十分に効果があると判断された。
ロケットエンジンの開発に成功していた同盟国ドイツから日独技術交換協定によって資料を入手したが、外観図面・ロケット燃料成分表・燃料噴射弁の試験速報など、ごく一部の資料しか入手できなかった。
重要なエンジン内部構造の図面はなく、結局はほぼ独自に陸軍を中心としてエンジンや燃料の開発を行い、これと並行し機体の開発を海軍と三菱重工業が進めた。燃料は独自の安定剤などを加えて改良した。
1944年7月陸軍はロケットエンジンを搭載した大小の無線誘導弾の開発を決定し、機体は大型のイ号一型甲を三菱重工業、小型のイ号一型乙は川崎航空機、液体ロケットエンジンは三菱重工業へそれぞれ発注。
1944年10月液体ロケットエンジン搭載の無線誘導弾を大小の甲乙ともに試作一号機完成。燃料には過酸化水素と過マンガン酸ソーダを使用。日本における空対地ミサイルの元祖である。
弾頭800kgのイ号一型甲空対地誘導弾はロケットエンジンとして特呂一号三型を搭載し、推力は240kg。誘導弾総重量1400kg、全長5.77m。
弾頭300kgのイ号一型乙空対地誘導弾はロケットエンジンとして特呂一号二型を搭載し、推力は150kg。誘導弾総重量680kg、全長4.09m。
1945年6月から7月空襲により川崎航空機の工場が壊滅的な被害を受け、イ号一型乙をそれまでに150機制作したが生産が打ち切りとなる。あわせてイ号一型甲も打ち切られた。
1945年7月ロケットエンジンKR10型(陸軍での名称は特呂二号)を装備したキ200試作局地戦闘機「秋水」海軍一号機が完成し、試験飛行を実施する。
しかしタンクの設計に不備があり、飛行開始後高度約350mで燃料の供給不良によるエンジン停止で不時着大破。その後も開発は続けられたが終戦には間に合わなかった。
秋水の設計上の上昇能力は高度6千mまで2分10秒、1万mまで3分30秒。ちなみに、零戦は6千mまで約7分だった。
燃料には甲液(80%過酸化水素、オキシキノリン、バイロ燐酸ソーダ添加)と乙液(水化ヒドラジン、メタノール混合液、銅シアン化カリ添加)を使用。重量比100:36で反応させた。エンジン推力1500kg。
1944年陸海軍共同開発の秋水とは別に、海軍特攻機として固体ロケットエンジンを搭載した「桜花」を開発。
1945年桜花を実戦に投入するが、犠牲に見合うだけの成果を得ることはできなかった。航空機というよりも、実質的には有人誘導ミサイルである。
1945年敗戦により、GHQから航空分野の研究を禁止される。中島飛行機は富士産業へ社名変更。三菱重工業はGHQの財閥解体により東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業に分割。
1947年東京帝国大学が東京大学に改称。
1948年糸川英夫が東京大学教授に就任。
1950年8月富士産業がGHQにより工場ごとに分割解散させられる。浜松工場および荻窪工場は富士精密工業となる。
1952年日本が主権を回復し、航空分野の研究が解禁される。
1953年糸川英夫が提案する日本のロケットエンジン開発に、富士精密工業が賛同。
1954年2月東京大学生産技術研究所内に糸川英夫などによってAVSA研究班発足。
1954年4月富士精密工業がブリジストン傘下のプリンス自動車工業と合併。存続会社を富士精密工業とする。
1954年9月富士産業が分割した企業が再合併し富士重工業が発足。その後も富士産業から分割していた企業を吸収合併するが、富士精密工業はすでにブリジストンの資本傘下にあったためこの合併に不参加。
1955年2月東京大学生産技術研究所千葉実験場内にSR研究班発足。
1935年糸川英夫が東京帝国大学工学部航空学科を卒業し、中島飛行機に入社。九七式戦闘機・一式戦闘機隼(はやぶさ)・二式単座戦闘機鍾馗(しょうき)などの開発に関わる。
1941年糸川英夫が東京帝国大学助教授に就任。
1944年第二次世界大戦中B29迎撃のために、大気の薄い高々度での飛行が可能で、上昇力の強い迎撃機としてロケットエンジン搭載の戦闘機の開発を始める。
当時のレシプロ機は上昇に時間が掛かり、大気が薄い高高度ではプロペラの効果が下がるうえ、酸素不足によりエンジンの燃焼効率が落ちる欠点があった。
短時間に急上昇が可能で、大気中の酸素を使用しないロケットエンジンなら、迎撃のための短時間戦闘であれば十分に効果があると判断された。
ロケットエンジンの開発に成功していた同盟国ドイツから日独技術交換協定によって資料を入手したが、外観図面・ロケット燃料成分表・燃料噴射弁の試験速報など、ごく一部の資料しか入手できなかった。
重要なエンジン内部構造の図面はなく、結局はほぼ独自に陸軍を中心としてエンジンや燃料の開発を行い、これと並行し機体の開発を海軍と三菱重工業が進めた。燃料は独自の安定剤などを加えて改良した。
1944年7月陸軍はロケットエンジンを搭載した大小の無線誘導弾の開発を決定し、機体は大型のイ号一型甲を三菱重工業、小型のイ号一型乙は川崎航空機、液体ロケットエンジンは三菱重工業へそれぞれ発注。
1944年10月液体ロケットエンジン搭載の無線誘導弾を大小の甲乙ともに試作一号機完成。燃料には過酸化水素と過マンガン酸ソーダを使用。日本における空対地ミサイルの元祖である。
弾頭800kgのイ号一型甲空対地誘導弾はロケットエンジンとして特呂一号三型を搭載し、推力は240kg。誘導弾総重量1400kg、全長5.77m。
弾頭300kgのイ号一型乙空対地誘導弾はロケットエンジンとして特呂一号二型を搭載し、推力は150kg。誘導弾総重量680kg、全長4.09m。
1945年6月から7月空襲により川崎航空機の工場が壊滅的な被害を受け、イ号一型乙をそれまでに150機制作したが生産が打ち切りとなる。あわせてイ号一型甲も打ち切られた。
1945年7月ロケットエンジンKR10型(陸軍での名称は特呂二号)を装備したキ200試作局地戦闘機「秋水」海軍一号機が完成し、試験飛行を実施する。
しかしタンクの設計に不備があり、飛行開始後高度約350mで燃料の供給不良によるエンジン停止で不時着大破。その後も開発は続けられたが終戦には間に合わなかった。
秋水の設計上の上昇能力は高度6千mまで2分10秒、1万mまで3分30秒。ちなみに、零戦は6千mまで約7分だった。
燃料には甲液(80%過酸化水素、オキシキノリン、バイロ燐酸ソーダ添加)と乙液(水化ヒドラジン、メタノール混合液、銅シアン化カリ添加)を使用。重量比100:36で反応させた。エンジン推力1500kg。
1944年陸海軍共同開発の秋水とは別に、海軍特攻機として固体ロケットエンジンを搭載した「桜花」を開発。
1945年桜花を実戦に投入するが、犠牲に見合うだけの成果を得ることはできなかった。航空機というよりも、実質的には有人誘導ミサイルである。
1945年敗戦により、GHQから航空分野の研究を禁止される。中島飛行機は富士産業へ社名変更。三菱重工業はGHQの財閥解体により東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業に分割。
1947年東京帝国大学が東京大学に改称。
1948年糸川英夫が東京大学教授に就任。
1950年8月富士産業がGHQにより工場ごとに分割解散させられる。浜松工場および荻窪工場は富士精密工業となる。
1952年日本が主権を回復し、航空分野の研究が解禁される。
1953年糸川英夫が提案する日本のロケットエンジン開発に、富士精密工業が賛同。
1954年2月東京大学生産技術研究所内に糸川英夫などによってAVSA研究班発足。
1954年4月富士精密工業がブリジストン傘下のプリンス自動車工業と合併。存続会社を富士精密工業とする。
1954年9月富士産業が分割した企業が再合併し富士重工業が発足。その後も富士産業から分割していた企業を吸収合併するが、富士精密工業はすでにブリジストンの資本傘下にあったためこの合併に不参加。
1955年2月東京大学生産技術研究所千葉実験場内にSR研究班発足。
1965年K-8Iをインドネシアへ10台輸出。8月に打ち上げ。このインドネシアへの固体ロケット輸出からアメリカが急速に対日ロケット政策を始める。
1965年9月頃アメリカ政府軍事管理縮小局(ACDA)の宇宙評議会ワーキンググループは、[宇宙開発における対日協力・軍備管理の検討]というレポートまとめ、この中には次の一文があった。
「日本の固体ロケットの能力をもってすれば、今後3年以内に独自で核弾道ミサイルを開発できる」このレポートは機密文書扱いとされ、1996年3月まで非公開であった。
ACDAは、日本に対し液体ロケット技術の供与についても触れている。
「液体ロケット技術の供与は、日本のロケット開発への米国の関与を増大させることにもなる。固体ロケット技術と比較すると液体ロケット技術はミサイルとの関連が少なく、液体ロケットが性能的にも、より魅力的であると説得できる」
これは日本の固体ロケット開発をやめさせたいアメリカが、液体ロケットをエサに日本の宇宙開発を自国の管理下にしようとしたものである。
1965年12月ハンフリー副大統領が来日し、佐藤栄作首相と宇宙開発の協力関係について会談する。
NASAのウェブ長官は、この会談について次のように報告した。
「……日本はアメリカとの協力なしに、独自プログラムを推進する決定をした。日本のこの決定には、宇宙活動の中心人物、特に東京大学の糸川博士が意図的にアメリカとの協力をゆがめた」
1966年東京工業大学の岡本哲史教授らが日本初の液体水素液体酸素燃料のロケットエンジン実験を行う。
1966年8月プリンス自動車工業が日産自動車に吸収合併される。
1966年から1977年にかけてL-3Hにて高度2000km。全長16.5m重量9.5tペイロード100kg。
1967年12月訪米した佐藤首相はジョンソン大統領と会談。そのときの共同声明は次のような内容。
「宇宙の平和的探査利用について会談した。両者は現在までに日米宇宙協力を検討し、将来の協力の可能性を調査した。今後はこの可能性についてより深く検討することで両者は合意した」
1968年4月衆参両院で「宇宙開発委員会設置法」可決。同法には、「宇宙開発は平和目的に限定する」という原則が付帯決議された。
1968年米TRW社から「宇宙航空研究所にTRWが全面的に協力する用意がある」と申し出があるが、宇宙研側はきっぱりと断る。
1968年8月総理府のもとに[宇宙開発委員会]が設置される。
1969年10月宇宙開発推進本部が[宇宙開発事業団(NASDA)]に改組。
1970年2月南極昭和基地からオゾン観測機などを搭載したS-160JA-1打ち上げ成功。高度87km。
1970年2月L-4Sにて日本初の人工衛星「おおすみ」の軌道投入成功。L-4S全長16.5m重量9.4t。おおすみ全長100cm重量24kg。
世界初の無誘導ロケットによる軌道投入成功。ソビエト・アメリカ・フランスに続いて世界で4番目の人工衛星打ち上げ国になる。
1970年宇宙開発委員会は、Q計画を中止し新N計画への移行を決定。新N計画は低軌道へ800kgの衛星を、静止軌道なら130kgの衛星を打ち上げが可能なN-1ロケットの開発。
1971年から翌72年4段式のミューロケットM-4Sにて4機中3機が打ち上げ成功。全長23.6m重量43.6t。低軌道に無誘導で180kgの打ち上げ能力。
1974年から1979年3段式のM-3Cにて4機中3機が打ち上げ成功。全長20.2m重量41.6t。1段少なくなったが、高性能化で低軌道に195kgへ打ち上げ能力向上。
1975年9月アメリカのマクダネル・ダグラス社のソーデルタロケットから技術導入したN-Ⅰロケット1号機の打ち上げに成功。1982年まで7機中6機成功。
ライセンス生産でのメーカー分担は、誘導装置を日本電気、1段目ロケット本体と2段目を三菱重工業、1段目液体エンジンを石川島播磨重工業、1段目補助ブースターと3段目固体ロケットを日産自動車。
これは、固体ロケットの実績を積み重ねることに危険を感じたアメリカが、自国の管理下に日本の軌道ロケットを封じ込めるために、デルタ型液体燃料ロケットの技術提供を申し出たことによる。
しかし、すべての資料を提供されたわけでなく、軌道投入に必要なアポジモーターなどは外観図面のみのブラックボックスであり、ソフトウェアの提供やICBMにつながる再突入技術も規制された。
全長32.57m重量90.4t国産化率53~65%。低軌道800kg静止軌道130kgの打ち上げ能力。
1965年9月頃アメリカ政府軍事管理縮小局(ACDA)の宇宙評議会ワーキンググループは、[宇宙開発における対日協力・軍備管理の検討]というレポートまとめ、この中には次の一文があった。
「日本の固体ロケットの能力をもってすれば、今後3年以内に独自で核弾道ミサイルを開発できる」このレポートは機密文書扱いとされ、1996年3月まで非公開であった。
ACDAは、日本に対し液体ロケット技術の供与についても触れている。
「液体ロケット技術の供与は、日本のロケット開発への米国の関与を増大させることにもなる。固体ロケット技術と比較すると液体ロケット技術はミサイルとの関連が少なく、液体ロケットが性能的にも、より魅力的であると説得できる」
これは日本の固体ロケット開発をやめさせたいアメリカが、液体ロケットをエサに日本の宇宙開発を自国の管理下にしようとしたものである。
1965年12月ハンフリー副大統領が来日し、佐藤栄作首相と宇宙開発の協力関係について会談する。
NASAのウェブ長官は、この会談について次のように報告した。
「……日本はアメリカとの協力なしに、独自プログラムを推進する決定をした。日本のこの決定には、宇宙活動の中心人物、特に東京大学の糸川博士が意図的にアメリカとの協力をゆがめた」
1966年東京工業大学の岡本哲史教授らが日本初の液体水素液体酸素燃料のロケットエンジン実験を行う。
1966年8月プリンス自動車工業が日産自動車に吸収合併される。
1966年から1977年にかけてL-3Hにて高度2000km。全長16.5m重量9.5tペイロード100kg。
1967年12月訪米した佐藤首相はジョンソン大統領と会談。そのときの共同声明は次のような内容。
「宇宙の平和的探査利用について会談した。両者は現在までに日米宇宙協力を検討し、将来の協力の可能性を調査した。今後はこの可能性についてより深く検討することで両者は合意した」
1968年4月衆参両院で「宇宙開発委員会設置法」可決。同法には、「宇宙開発は平和目的に限定する」という原則が付帯決議された。
1968年米TRW社から「宇宙航空研究所にTRWが全面的に協力する用意がある」と申し出があるが、宇宙研側はきっぱりと断る。
1968年8月総理府のもとに[宇宙開発委員会]が設置される。
1969年10月宇宙開発推進本部が[宇宙開発事業団(NASDA)]に改組。
1970年2月南極昭和基地からオゾン観測機などを搭載したS-160JA-1打ち上げ成功。高度87km。
1970年2月L-4Sにて日本初の人工衛星「おおすみ」の軌道投入成功。L-4S全長16.5m重量9.4t。おおすみ全長100cm重量24kg。
世界初の無誘導ロケットによる軌道投入成功。ソビエト・アメリカ・フランスに続いて世界で4番目の人工衛星打ち上げ国になる。
1970年宇宙開発委員会は、Q計画を中止し新N計画への移行を決定。新N計画は低軌道へ800kgの衛星を、静止軌道なら130kgの衛星を打ち上げが可能なN-1ロケットの開発。
1971年から翌72年4段式のミューロケットM-4Sにて4機中3機が打ち上げ成功。全長23.6m重量43.6t。低軌道に無誘導で180kgの打ち上げ能力。
1974年から1979年3段式のM-3Cにて4機中3機が打ち上げ成功。全長20.2m重量41.6t。1段少なくなったが、高性能化で低軌道に195kgへ打ち上げ能力向上。
1975年9月アメリカのマクダネル・ダグラス社のソーデルタロケットから技術導入したN-Ⅰロケット1号機の打ち上げに成功。1982年まで7機中6機成功。
ライセンス生産でのメーカー分担は、誘導装置を日本電気、1段目ロケット本体と2段目を三菱重工業、1段目液体エンジンを石川島播磨重工業、1段目補助ブースターと3段目固体ロケットを日産自動車。
これは、固体ロケットの実績を積み重ねることに危険を感じたアメリカが、自国の管理下に日本の軌道ロケットを封じ込めるために、デルタ型液体燃料ロケットの技術提供を申し出たことによる。
しかし、すべての資料を提供されたわけでなく、軌道投入に必要なアポジモーターなどは外観図面のみのブラックボックスであり、ソフトウェアの提供やICBMにつながる再突入技術も規制された。
全長32.57m重量90.4t国産化率53~65%。低軌道800kg静止軌道130kgの打ち上げ能力。
2007年9月H-ⅡA13号機にて月周回軌道へ「かぐや」を投入。世界で初めて月面のハイビジョン映像をリアルタイムに中継。この13号機からロケット本体を製造する三菱重工業へ打ち上げ作業などの関連業務を移管。
2007年12月ひのでの2006年11月に実施したプロミネンス観測結果の解析で、アルベン波を発見。
2008年2月H-ⅡA14号機にて超高速インターネット衛星「きずな」の打ち上げ成功。
2008年ISSへ日本実験棟「きぼう」の船内保管庫を3月に、船内実験室は6月にアメリカのスペースシャトルにて打ち上げ。モジュール内は宇宙空間にあっても日本の主権が及ぶ。
2008年アイ・エイチ・アイ・エアロスペースがIHIエアロスペースに社名変更。
2008年12月三菱電機が、シンガポールと台湾の次期商用通信衛星「ST-2」を受注し、国際商用通信衛星市場に初参入。
2009年1月三菱重工業が韓国航空宇宙研究院(KARI)から多目的衛星KOMPSAT-3(アリラン3号)の打ち上げを受注。
2009年7月IHIがLNGロケットエンジンLE-7の試作機にて、600秒間の連続燃焼に成功。
2009年9月JAXAと三菱重工業がH-ⅡBロケットの1号機にてHTVの軌道投入。自立制御ランデブーによりISSへ接近し、ロボットアームにてドッキング成功。
HTVは無人補給機としては、国際標準実験ラックが搬入可能な世界で唯一の輸送機である。
H-ⅡBの打ち上げにより世界で3番目のクラスターエンジンロケット成功国となる。H-ⅡBは全長56.6m。重量551t。低軌道19t、静止軌道は8tの打ち上げ能力がある。
2009年11月Ⅹ線観測衛星「すざく」の観測データの解析で、世界で初めて銀河の外で大量のレアメタルを発見したと発表。
2010年3月ひのでの観測データをもとに、太陽フレアやそれにともなう宇宙環境の乱れなどをほぼ再現できるモデルの開発に成功。
2010年5月H-ⅡA17号機にて世界初の太陽光推進のソーラーセイル実証機「イカロス」打ち上げに成功。同時に日本初の金星探査機「あかつき」および、相乗りの小型衛星打ち上げ。
2010年6月イカロスはソーラーセイルの帆14m四方(およそ、バドミントンコート2面分)を展開することに成功。
イカロスに搭載されたDCAM2の分離に成功し、展開したイカロスの帆を撮影。DCAM2はミネルバよりも小さな世界最小の人工惑星になる。DCAM2の大きさはおよそ直径5cmⅹ高さ5.5cm。
2010年6月小惑星探査機はやぶさが地球に帰還。本体は大気圏突入で燃え尽き、サンプル回収カプセルがオーストラリア南部ウーメラ砂漠に到着。ほぼ予定通りの場所で、パラシュートの展開および軟着陸に成功。
最も長期間宇宙空間にあった探査機の地球帰還成功。最も長距離を飛行した探査機の地球帰還成功。最も長期間のイオンエンジン運転成功。故障したイオンエンジンの部品組み合わせによる再起動成功。
2010年7月はやぶさのイオンエンジンチームが米国航空宇宙学会(AIAA)から技術賞を授与。
2010年7月種子島からのロケット打ち上げ期間を年間190日間から通年に見直しについて、種子島周辺漁業対策協議会及びJAXAは関係5県の漁業者と合意に至る。
2010年8月超高速インターネット衛星「きずな」を経由し、移動船舶からの通信で従来の10倍以上の高速通信に成功。
2010年9月JAXAが、イタリア宇宙機関(ASI)、ノルウェー宇宙センター(NSC)、フランス国立宇宙センター(CNES)との間で、それぞれ協力協定を締結。
2010年9月H-ⅡA18号機にて準天頂測位衛星「みちびき」初号機の打ち上げ成功。
2010年11月無人補給機HTVの愛称が公募により「こうのとり」に決定する。
2010年11月はやぶさのサンプル回収カプセルから、小惑星イトカワの粒子確認を発表。月よりも遠い場所へ着陸してのサンプル回収世界初。
2010年12月あかつきが金星に接近。金星周回軌道への投入は再接近予定の6年後に延期。
2010年12月イカロスが金星フライバイに成功。
2010年12月みちびき初号機の標準コード測位信号で、移動車両でも従来の米GPS衛星だけの場合を大きく上回る精度3cmの位置情報を確認。民生用測位システムとしては世界最高精度を達成。
2011年1月H-ⅡBロケットの1号機にてHTVの軌道投入およびISSへのドッキング成功。第2段ロケットで初の制御落下成功。ISSの運用水として初めて日本の水の運搬。
2007年12月ひのでの2006年11月に実施したプロミネンス観測結果の解析で、アルベン波を発見。
2008年2月H-ⅡA14号機にて超高速インターネット衛星「きずな」の打ち上げ成功。
2008年ISSへ日本実験棟「きぼう」の船内保管庫を3月に、船内実験室は6月にアメリカのスペースシャトルにて打ち上げ。モジュール内は宇宙空間にあっても日本の主権が及ぶ。
2008年アイ・エイチ・アイ・エアロスペースがIHIエアロスペースに社名変更。
2008年12月三菱電機が、シンガポールと台湾の次期商用通信衛星「ST-2」を受注し、国際商用通信衛星市場に初参入。
2009年1月三菱重工業が韓国航空宇宙研究院(KARI)から多目的衛星KOMPSAT-3(アリラン3号)の打ち上げを受注。
2009年7月IHIがLNGロケットエンジンLE-7の試作機にて、600秒間の連続燃焼に成功。
2009年9月JAXAと三菱重工業がH-ⅡBロケットの1号機にてHTVの軌道投入。自立制御ランデブーによりISSへ接近し、ロボットアームにてドッキング成功。
HTVは無人補給機としては、国際標準実験ラックが搬入可能な世界で唯一の輸送機である。
H-ⅡBの打ち上げにより世界で3番目のクラスターエンジンロケット成功国となる。H-ⅡBは全長56.6m。重量551t。低軌道19t、静止軌道は8tの打ち上げ能力がある。
2009年11月Ⅹ線観測衛星「すざく」の観測データの解析で、世界で初めて銀河の外で大量のレアメタルを発見したと発表。
2010年3月ひのでの観測データをもとに、太陽フレアやそれにともなう宇宙環境の乱れなどをほぼ再現できるモデルの開発に成功。
2010年5月H-ⅡA17号機にて世界初の太陽光推進のソーラーセイル実証機「イカロス」打ち上げに成功。同時に日本初の金星探査機「あかつき」および、相乗りの小型衛星打ち上げ。
2010年6月イカロスはソーラーセイルの帆14m四方(およそ、バドミントンコート2面分)を展開することに成功。
イカロスに搭載されたDCAM2の分離に成功し、展開したイカロスの帆を撮影。DCAM2はミネルバよりも小さな世界最小の人工惑星になる。DCAM2の大きさはおよそ直径5cmⅹ高さ5.5cm。
2010年6月小惑星探査機はやぶさが地球に帰還。本体は大気圏突入で燃え尽き、サンプル回収カプセルがオーストラリア南部ウーメラ砂漠に到着。ほぼ予定通りの場所で、パラシュートの展開および軟着陸に成功。
最も長期間宇宙空間にあった探査機の地球帰還成功。最も長距離を飛行した探査機の地球帰還成功。最も長期間のイオンエンジン運転成功。故障したイオンエンジンの部品組み合わせによる再起動成功。
2010年7月はやぶさのイオンエンジンチームが米国航空宇宙学会(AIAA)から技術賞を授与。
2010年7月種子島からのロケット打ち上げ期間を年間190日間から通年に見直しについて、種子島周辺漁業対策協議会及びJAXAは関係5県の漁業者と合意に至る。
2010年8月超高速インターネット衛星「きずな」を経由し、移動船舶からの通信で従来の10倍以上の高速通信に成功。
2010年9月JAXAが、イタリア宇宙機関(ASI)、ノルウェー宇宙センター(NSC)、フランス国立宇宙センター(CNES)との間で、それぞれ協力協定を締結。
2010年9月H-ⅡA18号機にて準天頂測位衛星「みちびき」初号機の打ち上げ成功。
2010年11月無人補給機HTVの愛称が公募により「こうのとり」に決定する。
2010年11月はやぶさのサンプル回収カプセルから、小惑星イトカワの粒子確認を発表。月よりも遠い場所へ着陸してのサンプル回収世界初。
2010年12月あかつきが金星に接近。金星周回軌道への投入は再接近予定の6年後に延期。
2010年12月イカロスが金星フライバイに成功。
2010年12月みちびき初号機の標準コード測位信号で、移動車両でも従来の米GPS衛星だけの場合を大きく上回る精度3cmの位置情報を確認。民生用測位システムとしては世界最高精度を達成。
2011年1月H-ⅡBロケットの1号機にてHTVの軌道投入およびISSへのドッキング成功。第2段ロケットで初の制御落下成功。ISSの運用水として初めて日本の水の運搬。
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