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    元スレ高垣楓「君の名は!」P「はい?」

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    51 = 1 :

    という風に読み替えてください。たびたびすいません

    52 = 1 :

    この時代の庶民の年収というと、大体二十五両から三十両くらいである。
    対して新選組というのは三食住まい付きで“月給”が平隊士でも十両、さらに手柄を立てたり介錯人などのお役をこなせばその都度、三両、五両と褒美やお清め代が出ていたから、確かに金回りはすこぶるよかった。
    幹部である助勤以上や隊長格は三十両、局長である近藤は五十両取っていたほどで、実際、隊士の中には正妻の他に、休息所と称して妾を囲っていたものも少なくなかったのだ。

    その代わり、いつ死んでもおかしくはなかった。任務中の殉職はもとより、常に内部告発や士道不覚語による切腹沙汰が後を立たなかった。
    しかも蓋を開ければ、良くて脱藩、並みで中間や戸籍もないような貧乏庶民、悪ければ殺人や不貞をしでかして逐電してきたようなのもいたくらいで、いずれにしろ国許には帰れない、潰しの利かない一方通行の男たちであった。
    さすがにそうとは言えぬから、皆が憂国の志のため身を投じた志士であるとは語っていたものの、実情は飯と銭につられて集まった命知らずといったところが大半であったろう。

    一方、島原の花魁というのも、また法外であった。瑞樹天神のような上級芸妓であれば一晩、酒を飲むだけでも二両から三両はした。身請けともなれば数百両は要った。
    ましてその最高峰たる鯉風大夫の揚げ代となれば、推して知るべしである。一応、幕府のお触れで身請け代の上限は五百両までと決まっているのだが、図抜けた人気の遊女であればその先稼ぐであろう揚げ代の見込みがご祝儀やらなんやらに加算されて、その上限を超える金額となることもあった。

    鯉風太夫の身請けともなれば、おそらく千両は下るまい。

    53 = 1 :

    「かえちゃんやったら、そのお人の事を諦めても、絶対幸せにしてくれはる人がいっくらでもおる。お互い、納まるべきトコに、納まるべきや」

    そんな法外な金額であっても引く手あまたというのが、鯉風太夫という女性であった。

    ――――全国の花街の投げ込み寺に無縁仏として葬られた遊女の数は、優に十万を下らぬという。

    人並みの生活ができる遊女はほんの一部で、ほとんどの遊女は過酷な労働環境を強いられ、二十代のうちに使い潰され死んだ。
    病をもらい回復の見込みもないと言って、息のあるうちに寺に放り込まれた哀れな遊女もいる。

    苦界はまさしく、地獄であった。彼女らがそんな地獄から脱する手段は、死ぬか、身請けされるかであった。

    たとえ運よく年季明けまで勤められたとしたとて、幼いころに売られずっと花街で過ごしてきら彼女らが、それ以外の生き方などできない。
    人並みの生活を得られる唯一の手段は、嫁に貰われる以外になかった。結婚は、女たちの夢であった。

    太夫のように、せっかく来た身請けの話を蹴ってもなお次がある、というのは、たいそう恵まれており、また贅沢な話であったのだ。

    54 = 1 :

    「みずき姉さま。お心遣い、痛み入ります。みずき姉さまの真剣に怒って下さるところ、わっちは好きです。川島さまも、姉さまのそんな情の深いところに惚れておられるのでしょうね。」

    駄目な人が好きなんですねぇ、お互い。
    などと言って、クスクス笑う。

    「女ですもの。姉さまもきっと川島さまが手を伸ばしたら、迷わずその手を取られるでしょう。たとえどんな知れ切った困難であろうとも、川島さまと生きていこうと思うはずです。女って、そういうものですよね」
    「……そったな恐とろしいこと言わんで、かえちゃん。アンタが知れ切った往生を遂げるつもりなら、わっちも命に代えてそれをとめなあかんえ」

    瑞樹天神は凍り付くように血の気の引いてくる顔を、必死に取り乱さぬよう保った。
    太夫の表情は、何かを覚悟した顔に見えてならなかったのだ。

    「安心して、姉さま。足抜けだとか心中とか、物騒なことは考えておりません。わっちは……あの人とは、一緒には生きられません。それは、わかっておりますから」

    それは、天神にとって意外な答えであった。
    が、続きに、もっと予想外な言葉が続いた。

    「わっちは、誰のお身請けも、お受けいたしませぬ」

    なんして、と、問う前に、太夫は続けた。

    「わっちは、きっとあの人を忘れることは出来んせん。身請けの果報を頂きながら他の殿方を想い続けることは、不義理でありんす。けんど、あん人はわっちと生きるべきでは、ねのす」

    普段は口にせぬ、お里のなまりが、端々に交じり始めた。

    55 = 1 :


    「あん人は、優しいお人ですから。きっとたんまりの幸せをくれる嫁御が出来ます。わっちなんかにかかずらわせて、要らぬ不幸を背負わせるわけには参りません」

    それは鯉風太夫ではなく、楓というひとりの少女の言葉なのだろう。

    「ですから、わっちは、身請けはされません。あん人にも。年季が明けるまで勤め上げて、あん人の幸せになった姿さ見届けられたら、それだけ瞼に写して、身が朽ちるまで生きてゆきます」

    その笑顔が、あんまりきれいなものだったから。
    瑞樹天神は言葉を失ってしまった。

    「優しいあの人には、刀は似合わねえから。お天道様にぽかぽか照らされながら、お百姓をするのがええ。」

    隣にはきれいなお嫁はんがいらっしゃって、あん人に良く似たお子らが遊んどる。
    それさ一目、見届けられたら、わっちはそれでええ。

    「……なんして」

    理不尽や、そう思った。
    瑞樹天神は、そう思わずにはおれなかった。

    「なんして、そんな理不尽なことを言うの。かえちゃん、アンタ、今まで良いことなんてひとつもなかったでしょう。
     もっと自分勝手になってええの。わがまま言ってもええの。なんでわざわざ苦しい方に行こうとするの。そんなん、理不尽よ」

    鯉風太夫がどんな苦労をしてきたのか、瑞樹天神は六つか七つの頃から知っている。どんな厳しい目にあっても理不尽な目にあっても、彼女は決して泣いたり嘆いたりしなかった。
    人生は不平等だと、彼女たちは骨の髄まで叩き込まれている。他人から与えられるものなど、彼女たちには何もなかった。

    この苦界に、夢も希望もなにひとつないという事を、彼女たちはそれこそいやになるほど思い知らされていたのだ。。

    それでも、世の中が正負の法則で出来ているというのなら、ひとつくらい、幸せの種があったっていい筈だろう。
    誰にでも幸せになる権利がある、なんてお題目が嘘っぱちだったとしても、少なくともこの娘にはその権利があるはずだ。
    それを目の前の明るい未来から背を向けて、知れ切った不幸に向かおうとするこの娘の行いは、天神には耐え難い理不尽に思えた。

    56 = 1 :


    「みずき姉さまのお心遣い、痛み入るほどにありがたい事ですけれども。わっちは姉さまが見込んでくださるほど、大した女子ではありんせん。
     好いた男に名前を呼んでもろうたら、それで満足出来る女子でござんす。」

    太夫は、安らかな面持ちで目を閉じながら、静かに首を振る。
    そして笑って、そう言う。

    「わっちの幸せは、決まっとります。好いたお人が幸せになってくらはったら、それで何もいらんえ。」

    澄んだ左目が語った。翡翠色を溶かしたような、綺麗な碧色。

    ――――あの方は、約束ば守ってくださいんしたから。
    わっちをもう一度、見付けてくださった。わっちをもう一度、楓と呼んでくださった。
    この上ない、果報でござんした。
    それだけで、十分でありんす。わっちの夢は、叶ったのですから。その夢だけで、わっちは生きていたいと思えたのですから。
    それだけで、きっとわっちは、生きていこうと思えますから。

    「――――泣いてはるの、みずき姉さま」

    大粒の涙を拭いながら、天神は首を振った。

    57 = 1 :


    「泣いておらん」
    「泣いております」
    「わっちの涙ではありんせん。アンタがちっとも泣かんから、わっちが代わりに泣くの。」

    溢れる涙を手の甲を押し当て拭う様は、泣きじゃくる子供のようにも見えた。

    「かえちゃんのあほ。辛いとか苦しいとか、なんにもかえちゃんが言わへんから。ひとつも言うてくれへんから、だからわっちが代わりに泣くんよ」

    平凡な幸せに憧れて、憧れて、ついに島原の囲いから二度と外に出られぬまま朽ちていく女子は、賽の河原の石ほどおる。
    いっそ、この娘がこんなに優しすぎなければ良かったのに。
    ほんの少しだけ身勝手ならば、好いた男に抱いてくだんせ、攫ってくだんせとすがり付いて、甘えられただろうに。
    そうすれば束の間でも、共に生きることは出来ただろう。
    ほんの少し人並みに薄情ならば、過去の男と割り切って、前に進めただろうに。
    そうすれば、誰もが羨む女の一生を送れたはず。

    「みずき姉さま」

    しゃくり上げる天神の頭を、太夫は幼子を慈しむように、優しく両腕で包み、胸に抱いた。

    「ありがとう、ござんす。」

    うなだれた天神の首筋に落とされた、その優しく澄んだ綺麗な声が、天神には切なくてたまらなかった。

    ――――かえちゃん、あんたはやっぱり、阿呆や。
    天下一の太夫になっても、昔とちっとも変わらん。ぶきっちょな癖に人の世話ばっかり焼いて損する、かえちゃんのまんまや。

    お互いを想い合うがゆえに、離れねばならぬ。
    好き合ったふたりが一緒に生きることすら許されぬ、そんな世の中なら。
    こんな酷い時代に、こんなふたりを生まれさせたのは、なんとご神仏も、意地の悪いことでありんすか。
    残酷なことでありんすか。

    58 = 1 :


    ◇◇◇◇

    「牙突・零式って」

    名酒・十四代に唇をぷるんと濡らして、楓さんがおもむろにのたまいける。

    「子供の頃、絶対真似しましたよね~」
    「いやいや、女子はやっとらんでしょう、セーラームーンとかじゃないんですか?」
    「時代はプリキュアですよプロデューサー」
    「時勢で主義主張を翻すような男にはなりたくないんですよ」
    「セーラームーンってスラムダンクの前にやってましたよね。流れでスラダンも見てましたよ」
    「やっぱりその時代じゃないですか」
    「おーとなになれないぼくらのー♪」
    「あ~コレコレ、20代中盤世代間における微妙なジェネレーションギャップ。僕らはね、ニチアサ9時ったらもう選ばれし子供たちでしたから。ゴキゲンな蝶になってましたから」
    「どっきりどっきりドンドン、不思議な力が湧いたらどーしよ?」
    「どーする!?」

    ……フォーマルな関係の相手と一足飛びにフレンドリーになる方法、知ってますか?
    それは明日の理想を語ることでも、意識高い仕事の話をすることでもなく。

    子供の頃に見てた漫画やアニメの話を共有することです。

    同世代同士なら当時のアニソン歌ってればなんとかなるんですよ。
    五十代ならマジンガーZ歌ってればいいし、二十代後半なら無限大な夢を叫んでればひとつになれるんです。
    それで冷めた態度を取るような非国民は士道不覚悟で切腹ですんで、付き合わなくてよろしい。

    59 = 1 :

    「そういえば、こんなの作ってきたんですよ。お酒が美味しすぎて忘れてました。」
    「ダメ人間ですねえ、はっはっは」
    「お揃いですねえ、うふふ」
    「どういう意味ですかな、はっはっは」

    尤も、僕と楓さんの腐れ縁具合は、沈黙も苦にならなければ、大暴投の茶化し合いでもキャッチしあえるくらいには成熟しているから、今さら話題なんてなんでもいいんだけど。

    「……サンドイッチ?」
    「はい」
    「……楓さんが作ったの?」
    「はい♪」

    女神の皮を被ったうわばみから、はじめて女子っぽいものが出てきた。

    「仕込みに4、5時間掛けて作りました。」
    「……」
    「仕込みに4、5時間」
    「ええ、わかってます」

    ドヤ顔でふんすとツッコミ待ちしてるところ申し訳ありませんがね。
    女性の手作りサンドイッチを前にとっさに普段通りの突っ込みを浴びせられるほど、こう、ぼくは人間は出来てないというか。

    「……本当は朝一時間くらい早起きして作りました。」

    そういう、いじらしいところですよ。
    ああ、もう。

    60 = 1 :


    「……楓さんにこんな一面があったとは。」
    「どういう意味ですか?」
    「のんべえオブのんべえだと思ってましたからね。てっきり自分で作れるのはおつまみくらいなもんだと」

    顔面の紅潮を、軽口と冷や酒で飲み下す。

    「ふーん……わかりました、仕方ありません。二人で分けようと思っていたこの秘蔵の北雪はお預けということで……」
    「話をしよう、楓さん。」

    またそんな通好みなヤツを。
    しかもそれYK35の雫酒じゃないっすか、四合瓶で8,000モバコインは下らない代物……
    いや……ちょっとちょっと、なにカップになみなみと注いでんのそんなぐい呑みするような酒ちゃうやろだからちょっと待て高垣ィ!!

    61 = 1 :

    「――さあ、復唱してください。楓さんは家庭的な料理も作れる素敵な女性です、嫁にしたい大好きです結婚しよう、はい」
    「くっ……殺せ……!!」

    楓さんの左目と同じ色をした魔性の四合瓶の輝きが、僕の中の劣情をちりちりと煽り立てる。

    「ふふ……いまならこの一夜雫だって開けちゃいますよ……」
    「ばっ、ばかなっ!? 圧倒的人気を博しながらその特殊な製法が故に去年、惜しまれつつも製造中止となったまさに幻の銘酒が、なぜ楓さんの元にっ……!?」
    「ふっ……この高垣楓を、嘗めてもらっては困る!」

    資源の多寡が物事の趨勢を決めてしまう事がある。戦いの持つ残酷な現実だ。
    より多くを持つものに女神は微笑み、より強大な課金力を誇るPが上位報酬を手にする。

    「くっ、くそ……旅行だってのに荷物から酒瓶ばかり出てくる女を、家庭的と認める、なんてぇっ、悔しいっ……でもっ……!!」
    「言わないのならこの一夜雫を別のお酒とブレンドします。」
    「やっやめろーっ!」

    全国にごまんと居る高垣楓ファンからの貢物、そして自身の圧倒的購買力を背景にレア銘酒をずらりとそろえ、誘惑と恐怖を巧みに織り交ぜ交渉を優位に進めるその姿は、まさに世紀末歌姫。

    「三井の寿あたりとなんかどうですかね」
    「いっ、いやぁー!!」

    よりによってふんわり浮かぶが如きまるい口当たりの一夜雫と、大辛キレキレのミッチーを混ぜるなんて。
    ああ、神様……

    「ふふっ……あなたを救う神はいません……神は死んだ!」

    今まさに、目の前で僕の女神がダークサイドに墜ちようとしてますよ。お酒にも闇にも呑まれてるよ。
    くそっ、このままでは楓さんを嫁に迎えてしまう。
    楓さんに良く似た一男三女に恵まれて、少し朝の弱い楓さんを毎朝起こす幸せな日々を送ってしまう。
    ……あれ? 良い人生じゃないか……?

    62 = 1 :


    「……くふっ、ふ、ふっ……あははっ……っ!!」

    悪魔のドリンクバーを敢行していた楓さんが、やがてころころと笑い出した。
    どうしましたか、ようやく酔いましたか。

    「はーっ……ふふっ、ごめんなさい。私、あまり友人とこういう騒ぎ方をしたことが無かったんです」

    涙がにじむほど笑って、まなじりを指で撫でながら、楓さんが言った。

    「プロデューサーはご存知でしょうけれど……私、人見知りで。コミュニケーションも、そんなに上手では無くて」
    「……」
    「私、どうやら変わったコだったみたいですし、こんな変な眼をしていますし……友達は、多い方ではありませんでしたから」

    不意に、初めて出逢った時の彼女を思い出した。
    突然、モデル部門から新設されたばかりのアイドル部門にフラッと現れ、素晴らしい歌声を聴かせてくれた彼女。
    内気な女性だ、と感じたのを覚えている。そう、確かに内気な人だと感じたのだけれど、なぜかずっと前から知っているかのように、話しやすかった。
    たじろぐほどの美人で、普通は緊張するだろうに、あの時の僕は、彼女を初めて見て、妙に安心したんだ。
    その声も、佇まいも。なぜか、そのあとこの人とパートナーになるんだと、ぼくは信じきっていた。

    「はーっ……おかしい……ふふっ」

    ――――貴方と私が、これっきりとは思えなくて。
    それは、彼女の台詞だった気がする。
    なんの根拠もなかったのに、不思議なものだった。

    「……ねえ」

    美しい瞳が、語りかける。

    63 = 1 :

    ――――いっそ、和歌山にこのまま引きこもっちゃいますか。
    アイドルも辞めて。プロデューサーも辞めて。ただのふたりで、いっしょに。

    「幸い、お金はおっかねえくらいありますし。」

    ふと、彼女の駄洒落は、いったい誰の影響なんだろう、と思った。
    この互い違いの綺麗な瞳が笑っていると、ずっと見つめていてほしくなる。

    「……人間なんて案外、いい加減なもんです。今が良くなれば過去の意味なんて変わります」

    だからこそ僕は、楓さんにそんなことを言わせたくはなかった。

    「あなたの周りには、たくさんの素晴らしい人たちがいます。瑞樹さんも、美優さんも、志乃さんも。心配しなくても、ここから先は良いこと尽くめですよ」

    新しいミネラルウォーターのキャップを親指で開けると、パキッと音がした。

    「もちろん、僕だって居ます。もう二度と、寂しい思いはさせません」

    水の冷たさで渇いてきた喉を潤す。楓さんが、不安そうな顔をしていたような気がしたから。
    ひょっとしたら――楓さんにとって故郷は、楽しい思い出ばかりの場所ではなかったのかもしれない。

    『この瞳は、気持ち悪くないですか』

    昔、たった一度だけ、二人きりの車の中で、ぽつりとつぶやかれたことがある。
    僕は、なんのことかわからず、ぽかんとしてしまった。

    『別に……? いつも通り綺麗ですが』

    要領を得ないまま、そう答えてしまって、あの時は貴女の事を、僕と同じようなぽかんとした顔にさせてしまったけれど。
    貴女は、辛いときは、得意の駄洒落を飛ばして、へっちゃらだって笑い飛ばしたんだろうか。
    それとも、僕たちに出逢うまで、駄洒落を聞かせる相手も居なかったのだろうか。

    64 = 1 :


    「なんというか……楓さんには、下を向いてほしくないですから。貴方は、笑ってる顔が一番いいんで」

    少し面映ゆくて頬を掻きながら、なんとか、安心させたくて、思いつくことを言った気がする。

    「貴方のこれからに、僕は必ず居ますから。あなたが望む限り、僕は約束しますから」

    貴方の幸せの端っこに僕の姿もあるのなら、しがみ付いててでも、最期まで一緒にいますから。
    ――言っているうちに顔から火が出そうになって、途中からしどろもどろだったが、言いたいことは伝わったと思う。
    楓さんの瞳が、ちょっと大きくなったように見えたから。

    「……プロデューサー」

    すらりとした脚を組んで、頬杖をついてぷいっと視線を外に飛ばす。
    車窓の外の景色は、どこまで来ているんだろう、和歌山はもう、だいぶ近いのだろうか。

    「その……けっこう、恥ずかしいこと言ってます」
    「うるっさいな。酔ったんですよ。忘れてください」
    「……忘れて、あげません」

    ――いや、間が持たなくなって目を逸らしたのかと思ったら、違う。
    何か作ってる。
    すでに楓さん専用のサーブカウンターとなった車窓の窓際で、悪ふざけでしかない高級銘酒のドリンクバー。
    えっ、混ぜてんの? マジで?

    65 = 1 :

    「酔うほどに、そんな恥ずかしいセリフが出てくるのなら、もっと飲んでいただきます」
    「なんて劇物作ってんですか楓さん……」
    「飲みなさい、飲んで飲んで飲み潰れて眠るまで飲むのです、さあさあさあ」
    「くっ、この美人めんどうくせえっ!」

    ほっぺたにすっげえおちょこを押し付けてくるんだけど。
    この悪ふざけカクテル、クレイジーメープルとでも名付けてやろうか。

    「美味しいんですよ、クレイジーメープル。さっ、くいっと……」
    「マジでクレイジーメープルなんですか!? 一体誰が犠牲に……んくっ」

    酒というのは、都合の良い飲み物だな。嫌なことはアルコールに混ぜて飲み下せば無かったことにしちまえるし、照れ臭いことは頬の赤みが隠してくれる。
    僕と、楓さんがお酒が好きな理由は、たぶん同じだろう。
    上手く生きるのが下手なのは僕も同じだから。

    「…………うそ!? 旨い……!?」
    「でしょう?」

    百年前の人間も、こんな風に酒を煽ったんだろうか。

    66 = 1 :



    ◆◆◆◆

    ああ、しまった。
    巴と将棋を指す約束、すっかりぶっ飛ばしてしもうたわ。
    いや……春になったら薫と仁奈と花見にいこうと言っとった。夏になったら莉嘉とかぶと虫を取りに行こうと言っとった。
    雪美と買い物に行くとも言うとったし、晴にも、組太刀型の続きを教えるようせがまれとったな。
    ……すまんのう。
    せんせぇはおまんらとの約束、ひとっつも守れんようじゃ――――

    67 = 1 :

    「わしはいい……若い者から回してやれ」

    川島は地べたに腰掛けたまま、握り飯を配給しにきた少年隊士を、腕を振って下がらせた。
    半分凍った握り飯だが、物資不足の今ではそれでも貴重すぎる補給だ。
    ならば、少しでも元気な者からありつけさせてやるのが道理であろう。

    「……くそっ……!!」

    川島はずくずくと血の染みてくる、下手くそな包帯の巻かれた自らの脚を忌々しげに見つめた。

    鳥羽伏見で一敗地にまみれた新撰組は、敗走を重ねた。

    京を追われて、旧幕軍はひとまず大阪へ落ち延びる事となる。それは将軍慶喜公が大阪に本陣を構えていたからなのだが、退却する彼らにもたらされたのは思わぬ知らせだった。
    会津・桑名や新選組がいまだ戦っているうちに、公方様は僅かな側近を伴って海路で江戸に退いてしまったという。大阪に集合したときは大阪城はすでにもぬけの殻であった。

    「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」

    徳川慶喜公自らのその厳命とは裏腹に、主を失った本丸の御座所には徳川将軍の金扇御馬印だけが、とるものとりあえずとでもいう風に置き去りにされていたという。
    しようがないので追っ掛けるように江戸に退却したが、そこでなんと慶喜公から江戸城登城の禁止と江戸追放を言い渡され、おまけに、会津・桑名は朝敵とされてしまった。

    あんぐり、開いた口が塞がらぬ、とはこの事だった。死力を尽くして戦っていたら御大将から置いてけぼり、なんとか本陣にたどり着いてみたら、今すぐ出ていけ。とどめにお前らは今日から天下を乱す逆賊じゃ、と。

    その後は甲州鎮撫隊として戦ったがこれが散々な負け戦で、めいめいが散り散りになって江戸まで退却してきたら、すでに江戸は無血開城しており将軍は水戸へ蟄居していた。

    ここまであからさまなもんかい、と言いたくなるほどの、トカゲのしっぽ切りであった。幕府の最前線を担った会津・桑名を身代わりに、さっさと手終い店じまい、という話だ。

    将軍や御三家といったお偉方はハナから保身の事しか頭になくて、旧幕軍の将兵は捨て石にされた。そればかりか最も忠義篤く抗戦していた会津・桑名に全責任をおっ被せて、自分たちはとっとと降参してしまった。
    そうなると、徳川譜代大名も親藩も次々と新政府側に付いた。孤立してゆく中、新選組はあくまで旧幕軍として戦い続け、奥州まで後退する事となった。

    68 = 1 :


    「くそッ……くそうっ……ちきしょうめっ……!!」

    煮えくり返る腸の忌々しさを抑えきれずに、川島は傷ついた自らの太腿を殴りつけた。

    御大将が真っ先に帰順しちまったのだから、もはや幕府もへったくれもない。故に“旧”幕軍なのだが、会津の殿様は、引いては新選組は、武士道に外れたことはひとつもないはず。
    右脚の甲と太腿に銃弾を受けて、さしもの剛剣・川島も、満足に立てやせぬ。へたくそな包帯は、殆ど経験の無い新米隊士が巻いたものだ。
    ほんの数か月前に入隊したばかりの、簡単な応急処置のやり方も知らぬ十三、十四の少年隊士までが、補給も武装も医療道具もろくにない、こんな泥沼の戦争に放り込まれる事になってしまった。

    とってもやり切れねえ、お国の為と信じて命懸けで働いて、挙句がこのざまかよ。

    薩長が錦旗を掲げて新政府、というのは、そりゃ時勢だろう。後世は新撰組を時代の流れにいたずらに逆らった愚か者のように語るかも知れないが、現実が見えぬほどの馬鹿ではない。

    時勢は百も承知であった。それでも、侍として国家の治安のために戦い、徳川の禄を食んだからそれを支えるために戦い、会津藩お預かりとして新撰組の名を賜ったからそれに報いるために戦った。それは合理以前に、違えてはならぬ物事の筋というものであろう。
    それを、旗色が悪いからと悪いからって、はいさいと節を曲げて、聞き分けよく敵に寝返るなどというのは、それこそ士道不覚悟ではないか。

    ところが蓋を開けると、その武士の棟梁が真っ先に逃げ出した。あまつさえ、必死の覚悟で戦った会津中将殿が、死ぬ気で働いてきた俺たち新選組が、天下に仇なす反逆者で賊軍だと。

    そんなバカな話があるか。こうまで上の人間の思惑にいいようにされなきゃならねえのか。命がけでやってきたってのに、しょせん俺たち下々はお偉いさんの都合通りにされる虫けらか。

    69 = 1 :

    「ぐうっ……!!」

    殴ったところで、痛みは自分の身に返ってきた。それが、川島をたまらないほどやるせなくさせた。

    文久の頃から数えて五年、新選組は本当によく戦ってきた。
    たかが五年と言うやつもいるかもしれんが、密度が違う。生死を絶え間なく行き来する毎日は、濃ゆいもんだぜ。

    古参隊士はみな幾度もの修羅場を潜って死にぞこなった、一騎当千の強者だ。この戊辰の戦は散々の不利ながら、それでも二度も官軍を破った。それを率いた土方は、世が世なら英雄と呼ばれただろう。
    流山で処刑された近藤局長だって、味方をうっちゃらかして一人で逃げ出した公方さまより、よっぽど大将の器だろうよ。

    俺らはみんな、世の中の味噌っかすだ。近藤と土方は百姓、沖田は御家人の家来の息子、そういう俺だって、貧乏足軽の次男坊。
    みんな負け組だった。生まれた瞬間にそうと決められていた。
    どうにもならない貧乏人と小身者が、なにかを変えられるかもしれないと命を懸けたんだ。
    心も体も傷付けながら、そんな世の中に風穴を開けたくて、戦い抜いた果てに何とかなると信じて。

    「ッ………!!」

    声にならぬほどの悔しさが、痛みよりも激しく川島の体を巡った。

    殿上人であり和を重んずる会津中将殿が甘んじて朝廷の汚名を被り抗戦に踏み切ったは、身代りとして血祭りにあげられるしかない、我らが下々が忍びなかったからだ。
    近藤や土方は俗物だったかもしれんが、幕臣としての矜持を貫こうと命を張っただろう。
    ばかやろう、と、川島は叫びたかった。叫んだところで、ずたぼろの落武者であり天下の大罪人であるという現実を、びくとも動かせないのだという事実が、よりいっそう、川島の身体を焼いた。
    我が身の進退を呪ったのではない、人間ひとりの健気など無慈悲にさらってしまう黒い大波のごとき得体の知れぬ巨大な力を、川島は恨んだ。

    負け組は、負け組のままか。それにしたって運命というは、あんまり意地が悪かろう。

    どうにもならぬ。理不尽であった。
    殴り付けても動かぬ川島の右足と同じ。太く重く横たわる、ちょっとやそっとじゃビクとも動かぬ理不尽であった。

    70 = 1 :

    「怪我人は怪我人らしゅうなされよ、川島さん」

    場違いにひょうきんな声が聞こえたので顔を上げたら、包帯ごしの傷口に、口に含んだ焼酎をブッと吹き掛けられた。

    「ぐおっ!?……っつ~……!!?」
    「消毒もせずほったらかしにおいたら、蛆が涌いていずれ腐りますぞ。新撰組の鬼伍長殿が片足落とすわけにはいきますまい。」

    悲鳴を噛み[ピーーー]川島をよそに、焼酎で血糊を浮かせ、傷口と癒着しかかっていた包帯を手際よくはずして、手拭いを裂いた即席の包帯を巻き直していく。
    べりべり、と包帯がはがれると、カサブタの下から新たな血が滲みだした。

    「っつ……新撰組など、もはや名前だけしか無かろうが」
    「そうかもしんねぇ。けんど、そりゃあ、あんたが死ぬ理由にはなんねぇよ」

    最盛期二百人を超えた新撰組も、いまや五十人を切っていた。
    かつて京を駆け抜けた仲間たちは、もう、この戦場にはいない。
    百姓なまりまるだしの男は、懐から薬包をひとつとりだし、川島に渡す。

    「石田散薬です。あいにく熱燗はござりませぬが、ご容赦下され」

    二カッと笑って差し出してくるさまに何か無性にむしゃくしゃして、ひったくるように受け取り、焼酎で流し込んだ。
    石田散薬と言えば土方の生家の品で、熱燗で飲めば打ち身や骨折、切り傷にも効くという重宝な常備薬であり、新撰組でこれの世話にならぬ隊士は居なかったほどだ。
    喉から腹がかッと熱くなると、なるほど五臓六腑に効いていく気がするものである。

    「気付けに、消毒、石田散薬。焼酎は万能です、実にしょっちゅう、使い申す」
    「……」
    「……焼酎はしょっちゅう」
    「それはもういい」

    強張った肩の力が抜け、血の巡りと共にむしろ痛みも増した気がする。
    こいつは、なぜこんな能天気で居られるんだ。
    顔の半分、砲弾に吹っ飛ばされているというのに。

    71 = 1 :

    悲鳴を噛み[ピーーー]→悲鳴をかみころす

    です。なぜか規制が……

    72 = 1 :

    『――――ッ!!』

    白坂口の戦いで官軍の奇襲を受けた時、こいつは砲弾を顔面に食らった。
    赤い肉片を噴いて五間も六間も吹っ飛ばされるこいつの身体が目の端に映った時、さすがに胆が冷えた。
    周囲の兵士で、思わず動きを止めてしまう者も何人かあった。歴戦たるこいつの存在は、すでに一介の兵卒にはとどまらぬものがあったからだ。
    前線の士気が崩れかけた時、その雄叫びは聞こえた。

    ――――退くな!!

    修羅が居ったよ。
    脳漿を噴き洩らし、肉塊となった右の目玉をでろりとぶら下げたまま、ずんずんと怒らせるように歩み、続けて咆えた。

    ――――退けば撃たれる! 倒れていたらとどめを刺されるぞ! 立ち上がれ! 剣を下げるな! なんでも良いから前に出ろ!
    生きるために、戦え! 退くな、一歩も退くな!

    面を血まみれにしながらかまわず喚き、一分の迷いもなく斬り込んでくるあいつの姿は、敵もさぞ恐ろしかったろうな。
    あの気の優しい男が、人を斬るために己に憑りつかせた、修羅であったよ。
    結局、戦線は持ち堪えた。その戦いにおいて我らは政府軍を挟撃し、一時的に押し返すことに成功した。

    73 = 1 :



    「――――向井、腹は減っとらんか? 傷は悪くはないか」

    顔半分吹っ飛ばされた重傷で、やつは腰を屈めて新米隊士の世話を焼いている。

    「おまんの威勢はわしらの恃みじゃ。気張れよ、特攻隊長」

    その屈託のない笑みを、やつは残った左半分の顔いっぱいを使って浮かべる。
    その姿はおそらくにして、俺たちが往年の大幹部や隊長格を仰ぎ見ていたがごとく、いまだ戦場の何たるかを知らぬ少年隊士たちには、さぞや頼もし気に映ったであろうな。
    やつの笑みには、不安を取り攫うような、不思議な力があったものだ。

    「ふははっ、おにぎり様は逃げねぇぞ。ゆっくり食べれぇ」

    まるで神仏からの御代物のように、心底ありがたそうに目に涙を溜めて握り飯を頬張る横顔は、まるっきりまだ前髪も取れぬ、あどけない子供のそれであった。
    いや、きっと端から見りゃあ――――俺たちとて、変わらなかったのかも知れぬ。

    ぽん、と少年隊士の肩を叩いたあいつとてまだ、実際の齢は二十歳をやっと過ぎた程度であった。
    考えてみれば、泣く子も黙る我らが鬼の副長ですら齢三十四、あの大貫禄の近藤局長とて、斬首されたはわずか三十五。講談話で巷を湧かせた大幹部や剣豪たちも、みな二十代半ばの青年であった。

    つくづく、ただ一途に剣のみを恃みにした、向こう見ずであったよ。
    自らの生き死になどを知るには、我らはあまりにも若すぎたのだ。

    「川島せんせ」

    手の中に隠すように笹の包みを大事そうに抱えて、小走りで戻ってきた。

    「最後のひとつですた。やぁーや、残って良かった。さっ、食べましょや」

    会津の皆様から分けてもらいましただ、などと言いながら、当然のように二人で分けようとばかり、目の前で包みを広げた。
    新撰組の人斬り某じゃ、と言えば酒だの飯だの、すんなりと出てきただろうに、この人の良さそうな笑顔でぺこぺこと頭を下げながら、会津軍の小荷駄から分けてもらって、年少の者から順繰り配っておったのだろう。
    恐らく、俺が自分の分の握り飯を下の者に回したのも察しつつ、つつが無いように、最後には俺にもきちんと飯があたるように斟酌してな。

    74 = 1 :

    「逃げろ、貴様」

    もう、我慢がならなかった。
    川島がこいつのへらへら顔を見るとき、時折、無性に苛立ちを覚えたのは、他人の事ばかりおもんばかるこいつの優しさが、たまらなくむず痒かったからだ。

    「いい加減、こんなことにもう付き合うな。もう十分戦ったじゃねえか。さっさと辞めにして、女と生きろ」

    それは、懇願に近かったかもしれない。
    こいつが地獄の仏でも超人でもないことを、ただのひとりの男に過ぎぬことを、俺は知っている。
    お前、言っていたじゃないか。武士の体面など関係ない、惚れた女にもう一度逢いたいだけなんだと。
    どうすんだよ、そんな顔になっちまって。どの面下げて、女を迎えに行くんだ。
    死ななくていい人間が死に狂うのを見るのは、もうたくさんだ。

    「ひとりにしてはならない。ひとりで、戦わせてはならない。新撰組なら、誰もが知っている事です」

    片っぽになってしまった震えるような長い睫毛を閉じて、ヤツは静かに首を振った。

    「誠一字に、わしは誓いば申した。『死なぬ』と。けんどその為に節ば曲ぐるならば、誓いを果たしたとは言えねぇでしょう。誓いば果たさずして、自ら旗を折る事ば、でき申さぬ」

    魂は左目に宿る、という心得が剣術にはある。
    俗説みたいなものだが、こいつの残った左目は、正眼の構えの如くまっすぐ前を向いていた。
    千両松では源三郎さんが死んだ。吉村さんも死んだ。
    この戦場には、藤堂も原田も、沖田先生も永倉先生も居なかった。
    近藤局長も、斬首された。
    新撰組はもう、粉々になっちまったんだ。
    だのに、みんなして舞台を降りちまったってのに、お前はまだ戦うというのかい。

    「俺には帰る場所など無い」
    「在る。あんたが死んだら、嘆く人が居る。死に場所は、捨て鉢になって求めるもんではねぇ」

    目の前のなよっちい男が、急に頑とした骨太の男に思えた。
    死ぬること、生くること、こいつは既に答えを出していたのかもしれない。

    75 = 1 :

    「川島さん。あんた結構、すぐ泣くなア。侍が軽々しく、涙など流してはなんねぇ」

    憎まれ口も、すぼんでしもうたな。こいつの強い理由が、はっきりとわかったから。
    退くな、と響いたやつの叫びを思い出す。
    きっと人生ってやつも、そうなのかもしれない。決して退いちゃいけないところを、命を懸けるべき“死に場所”ってものを、しかと弁えたるのが男ってものだ。
    倒れていたら、とどめを刺される。向かい風がどれほど理不尽に吹いても、立ち向かって前へ進んでいくしかないんだ。

    最期の時がやってくる、その日まで。

    お天道様が決めてしまったどうしようもない理不尽に、やつは全力で抗っていたんだな。
    人智じゃどうにもならぬ巨大なものに、こいつは臆さず立ち向かった。気圧されてもぶっ潰されても、立ち上がって剣を振った。折られてたまるかと、挑み続けたのだ。

    あのときの叫びは、こいつが胸に掲げ続けた誠一字そのものだったのだ。

    矛盾だらけであるよ、こいつのやってきたことは。子供と遊んだり拾い猫を育てるのが趣味のようなくせして誰よりも人を斬り、銭金の為だと言いながら手前の為には一切使わず、自分のことしか考えておらぬと言いながら殿で戦い続けて、こんなところまで残ってしまった。
    人間なんて所詮、落ち目の土壇場にならないと本当の姿はわからんものだ。こいつは馬鹿と呼びたくなるほど不器用で、呆れるほど損得勘定の出来ぬ男だった。

    「……なあ、川島さん。このひでぇ戦争で死んじまった奴等が、この先の十年、三十年、遠い未来の、平和な時代を生きることが出来たとしたら……きっと、色んな事をやったんでしょうなぁ」

    すかんと晴れた青空を仰ぎながら、やつはそんなことをつぶやいた。
    お前の残った目に見えた未来は、どんな形をしている。きっと侍などは居ないだろう。身分の差はどうだろうな。
    誰もが自由に生きられる、そんな世の中か?
    誰が生きるべきかは、わかっていたよ。だが目の前の男を、押し留める言葉は、すでに俺はもたなんだ。

    「貴様は、わがままだ。とんでもなく、わがままだぞ」

    男として世の中の誰より筋の通ったことをしている人間に、こんなことしか言えない自分の生き方を、これほど恥じたことは、後にも先にも無かった。
    やつは、困ったように頬を掻きながら、優し気に笑っていた気がする。

    76 = 1 :


    「――――――降れと申すか? 貴様」
    「さに申してはおりませぬ。しかし会津に千万両のご恩を賜りし我ら、会津と運命を共にせぬものが一人もおらぬのは、忍びませぬ」

    差し向かいの男は、大あぐらをかいて左手の杯を舐めている。
    座っていても、並外れた大柄であることがわかる。六尺近くはあったというから、平均身長が五尺二寸程度のこの時代では、まさに大男だ。
    生来の左利きであるがゆえ、作法通りに右脇に刀を置いているものの、ことこの男に限っては、なんの安全弁にもならない。

    「それは降れという意味だ。会津はすでに降伏に傾いておる。土方は既に仙台を抜け、蝦夷へ渡る肚を固めた」
    「それには、隊を割るべきでござる。脚の動かぬもの、剣を既に握れぬもの。蝦夷まで行ってもうひと戦など、おぼつきませぬわ」

    副長・土方をなんら憚らず呼び捨てにする不遜、ぐいぐいと杯を干し、しかし呑むほどに据わる炯炯とした両眼。
    一目で大幹部とわかる貫禄だが、その佇まいに世慣れた鷹揚さなどはまるでない。

    抜き身の剣、そのもののような男だ。

    77 = 1 :

    「……いつもの、検討外れの気遣いか。たわけめ。死に場所を奪われたる者達が、恨みこそすれ、感謝などしようものかよ」
    「既に百の命を奪い、千の怨みを買うたる我が身。今さら、生者の恨みなどなんとしましょう」

    味方すら恐れさせるこの男とまともに正面から話すのは、幹部を除けば生々しく血ぐされた包帯で顔の右半分を覆った、この若者くらいのものであった。

    遡ること五年、手の内すらまともに知らぬ百姓小僧であったこの若者が剣を学んだは、この男である。

    それは手ほどき、という生ぬるいものではなく、まさにしごかれたというが適切な、苛烈な稽古ぶりであった。
    男は相手が初心であろうがお構いなしに、ずばずばと打ち込んで毎度の如く血だるまにした。その立ち合いの中からなんとか男の太刀捌きを盗み取り、寝込んではまだ傷が癒えぬうちに稽古を申し込んで血だるまにされ、の繰り返しであった。
    そもそも男の方には、モノを教えるなどというつもりは無かったのやもしれぬ。事実、隊内随一の達人でありながら、この男に剣を習ったというは、この若者を除いて一人も居らなかった。

    「もとより、感謝が欲しいわけではござらん。新撰組は戦う集団。戦うために在る者達。戦えぬものを連れて往くわけには参らぬ。戦えぬのに戦わせろと駄々をこねるは、わがままというものにござりましょう」

    それでもいつの間にか若者はこの男の剣を受け継ぎ、隊内屈指の歴戦の猛者として今日まで生き残ったのだから、端から奇妙には見えても、師弟としての間柄が二人には合ったのだろう。

    「その手前勝手ぶりは、いつ聞いても腹立たしいが。そのはしにもかからぬ下らぬ話、わしに聞かせてなんとする」
    「隊を割るには、指揮官が必要です。副長が北へ往かれるのであらば、それに相応しきはお一人をおいて、他におりません」

    瞬間、左手に持った杯を投げつけた。怒りのまま杯は男の右顔面を覆う包帯にぶち当たり、派手に砕け散った。

    78 = 1 :

    「わしに、生きろてか。このたわけが」

    包帯に新たな血が滲む。しかし左目は瞬きすらせず、炯炯と光る両眼を見据えていた。

    「貴様ごときが、いっぱしの口を聞いて隊の方針を意見し、あまつさえ死に場所さえ、このわしに指図しようと言うのかね?」

    荒々しい所作とうらはらに、声には全く苛立ちの類いが込められていない。それが、逆に余人を恐れさせたのだ。
    まったく色を出さぬままに相手を斬り捨てる、神速の居合いを得意としたその男の剣風そのものであった。

    「図に乗るなよ、小僧」

    痩せた狼を思わす細身に、鬼が宿る。
    修羅をも屠る鬼人の怒気だ。

    「去ねや、百姓。この期に及んでこれ以上、犬も食わぬ同情か仏心でものを言うておるのなら――――」

    斬る、と。斬るのきの字が出かかったその時。

    79 = 1 :


    「――この、日本の!」

    右側に置いた太刀を手に取った瞬間、小僧の矢のような一声が男を射抜いた。

    「この国の明日のために、この戦争でこれ以上、死なぬでもよい者達を死なすわけには参りませぬ」

    童顔のわりに鋭いまなじりは、鬼に対して一歩も引かぬと言っていた気がする。

    「新たな日本の担い手、たった一人でも多く、後の世に繋がねばいかぬのです!」

    斬る、と思うたは、洒落や伊達ではなかった。新撰組で斬るぞと言って、やはり斬らぬという間抜けは居らぬ。
    まして鬼の群れの中でも最も人斬りに躊躇の無い、この男であればなおさら。
    世に稀なる左利きの剣士である男は、右側に太刀を置いたまま、即座に抜き打つ事が出来た。その居合一閃でもって何度となく暗殺を成功させてきた。
    ゆえに、斬るの文字が頭に浮かんだ時点で、言うが早いか肉体は既に斬り捨てるつもりであった。
    男の打ち気、すなわち、右手で鞘を取った斬るのきの字を捉えたのは、小僧の後の先の剣気である。
    あれが言葉でなく刀であれば、左手で柄を抜き放ったが際、交錯の刹那に男の頸が飛んでいたはずだ。

    『剣気を捉えよ、打つのうの字を打て。後の先とは、即ちそれじゃ』

    木剣で血だるまにされながら食らい付いてくる、いつかの百姓小僧に、男が教えた唯一の居合いの極意であった。

    「この、阿呆が」

    ――――この小僧が、最初で最後であろうわしから取った一本が、よもやこれほど、考え得る中で最も忌々しい形とはの。

    「恨むぞ」
    「申し訳、あいや……かたじけない。」

    小僧の顔からフッと剣気が消えて、すがるような元のくしゃくしゃ顔に戻りおった。
    いっぱしの志士めいた口をほざいた、凛としたまなざしも消え失せて、低身して深々と下げる小僧の頭を、よほど蹴り上けてやりたいと思うたわ。

    「かたじけのう、ございまする。斎藤先生」

    武士が平伏するな、首打たれるがごとく頭を垂れるな。
    何度言うても、この小僧の悪癖は直らなんだ。
    今たびとて、互いに剣気をぶつけ合った相手を前に目を切り、あまつさえ首を差し出すなど。

    武士の気構えに欠くるわ、この、たわけが。

    そういってもどうせ聞かぬであろうから、やはりこいつは百姓小僧なのじゃと、斎藤は思うことにした。
    どうにもならぬ、事であるから。
    しようがないわ。

    恨むぞ、小僧。

    ――――新撰組撃剣師範・山口二郎は、「会津を見捨てるは誠義に非ず」と会津での抗戦を主張し、北方へのさらなる転戦を決意した土方歳三と決別。本隊が降伏した後も七日余り戦い抜き、最後は会津中将・容保の使者の説得に従い、会津藩士として投降した。
    山口二郎と共に投降した者たちは、全員が命を保証された。
    その後、山口は藤田五郎と改名、明治政府警視庁に所属し西南戦争などで活躍した後、大正の新時代まで生き抜き、七十二年の大往生を遂げた。
    後年、藤田は剣術草談や西南戦争での逸話を後進によく話したとされるが、戊辰の戦については一切語ることはなかったという。

    かつての名は、新選組三番隊組長・斎藤一。
    弟子や流名は、伝えられていない。

    80 = 1 :


    ◇◇◇◇

    「あんっ……! だめ、ですよぉっ……プロデューサーのドSぅ……」
    「……なんの夢見てるのか知りませんが、起きたらすっぱり忘れていてくださいね」

    悩ましげな声をあげる隣を見遣れば、陽射しに包まれながら気持ち良さそうに寝息を立てている。
    おちょこをミネラルウォーターのペットボトルに持ち替え、寝起きに飲んだ頭痛薬がようやく効いてきたと見えて、ガンガンと頭を締め付ける不快な痛みはだいぶ和らいでいた。
    あれだけしこたま呑んで、電車の固い座椅子でうたた寝すれば、そりゃ頭も痛くなろうってものだが。
    隣の美女は、僕の1.5倍は呑んでけろっとしていたものだ。この細い体に、どうやったらあれだけの酒が入るんだろう。

    「いやっ、立ったままなんてぇっ……ふふっ、そんなに私を、辱めたいんですか……」
    「いやにはっきりした寝言なのか、狸寝入りなのか……」

    どっちもいかにもやりそうであるからこの人は読めないんだが。

    「ふふっ、焼酎は……しょっちゅう……くう……」

    あ、大丈夫だ、コレは寝ている。

    「…………」

    この人は時々、生身の人だと思ないほど美しい。
    この横顔に、この国の一億人が恋をするんだ。男も女も、この人の互い違いの瞳に、“こいかぜ”を歌う声に、くぎ付けになる。
    それは確かに、ある意味で人を超えている。“女神”とかってのは、案外、洒落じゃないかも。
    そんな彼女の隣に居るのが自分であることに、疑問を覚えたことは、僕は一度もなかった。
    『貴方に逢えて良かった』と、貴女は言う。

    81 = 1 :

    「……僕は、貴女に逢えてから、人生が楽しくなりましたよ」

    貴女の名を、呼ぶのが好きです。貴女が笑っているのが、僕はうれしい。
    僕という男は多分、案外空っぽな、中身のない人間なんでしょう。
    貴女が輝けるのなら、幸せになれるのなら、別に他には、何も要らないから。
    僕の中には、すっぽりとそのまま、貴女がいる。
    僕の人生は、貴女ひとりの為のものでいいから。そのことに、特に疑問は湧かないから。

    「……酔っぱらってんだなあ、俺」

    ミネラルウォーターを一気にあおると、ジャボン、と音を立てた。
    既に温くなりかけている水を喉奥めがけ、流し込む。
    ……そんな風に想える人に出会える人生が、きっと何度あることだろう。

    「……僕は、貴女に会えて、貴女のために生きられて、それだけでけっこう、幸せですよ。感謝してもしきれません。ありがとう、ございます。」

    貴女が[ピーーー]というのなら、真っ先に命を捨ててもいいと思える。
    だから、貴女が寂しいのなら貴女の傍に居るし、貴女が要らないのなら僕は消えます。
    貴女に救われているのは、どう考えても僕の方ですわ。
    我ながら、幸せなこったと思いますよ。それ以外に、考えなきゃいけないことはなにもないのだから。

    「そういう事は、起きてるときに言わなきゃダメですよ。」

    ギクッとした。
    左右で違う碧い眼は、ふたつともばっちり開いていた。

    82 = 1 :


    「かえっ」

    俺の言葉よりも、早かったろうか。
    椅子についていた右手を、パッと上から被せるように押さえて、睫毛の節がわかるくらい近く、クイッ、と、楓さんが顔を寄せた。

    「……っ」

    クラっとするような、良い香り。
    真剣な目が、僕を見つめてくる。
    目をそらすことも、ごまかすことも許さない。そう言っていた。

    「……その」
    「プロデューサー、私、あなたに嘘ついたこと、ありません」
    「いっ、いま狸寝入りしてたじゃ」
    「それは、あなたが勝手に勘違いしただけです。ずっとあなたの言葉を聞いてました。」
    「んなっ……」
    「私、嘘ついたこと、ありませんよ」

    じっ……と見つめられる。
    なぜか、ラグドールを思い出した。
    小さな顔に、こぼれ落ちそうなほど大きな、きらきらの瞳。

    「……ええい、貴女に逢えて、良かったなぁって思ってたんです」

    もう照れ臭いので、勢いで言ってしまおう。
    そう思ったら、少し声が荒くなってしまった。

    「だから……ありがとう、って思ってます。まあ……幸せ……です……」

    すぼみながら、どうにか最後まで言い切った。

    83 = 1 :


    「続きは?」
    「!? つ、続きはって」
    「そこまで想って下さるなら、その先があるはずです。私に逢えて、幸せで、それで、あなたはどうしたいんです?」

    重ねられた手が、きゅっと結ばれた。
    楓さんのひんやりした手が、少し汗ばんでる。

    「プロデューサー」
    「は、はい」
    「唇。ごはんつぶ付いてます」
    「えっ……」

    魅惑のつまった唇が、震えるのが見えた。
    左手には、ペットボトルを握っていたから。
    僕に逃げ場はない。
    あっ、と思ったとき、時間が、音が、一瞬止まった。

    『――――次は、終点、和歌山です。大変長らく、お疲れ様でございました。ご乗車の皆様は、お忘れもののなきよう……』

    「……ん、やっと着きましたね、プロデューサー。長旅で体もガチガチになっちゃいましたし……温泉でスパッとコリをほぐしましょうか♪」

    再び、焦点の合った楓さんの駄洒落が耳に入ってきたとき、ようやく僕は、自分の息が止まっていたのに気づいた。
    右手の熱がふっと離れて、楓さんがいそいそと手櫛で髪を直す。
    僕の手は、自然と自らの唇に触れていた。

    「………べーっ……♪」

    酒なんか、きっととっくに抜けてる楓さんの頬が、ほんのり紅い。
    我知らぬ顔で荷物を整理しながら、チラリと、恐らく誰も見たことの無いようないたずらっ子の顔で、ちろっと舌を出して、はにかんだ。

    「……嘘つきめぇ……」

    口許を隠しながら、絞り出すように僕は言うしかなかった。

    唇にご飯粒なんて、ついてるわきゃあない。
    楓さんが作って来てくれたお弁当は、サンドイッチだったから。

    84 = 1 :

    申し訳ござりませぬ。思いのほか長くなったのとこれから家を出なければいないので、今夜はここまでとさせて頂きます。
    既に三分の二から四分の三くらいの更新は消化しておりますので、週末には完結できるかと思います。
    よろしければ、最後までお付き合い頂けると幸いです。

    86 :

    脳内BGMがこいかぜでなく完全に吉原ラメント
    誰か花魁衣装の楓さんハラディ

    87 :

    過去編面白い
    現代でもPは楓さんを守ろうとし続けていて、楓さんはPの為に歌い続けているんだな……
    過去編のあとに現代のほのぼのしたやり取りを見ると泣きそうになる。

    88 = 87 :

    所々ピー音入ってるのが残念

    89 :

    >>84
    なんでスレタイにモバつけないの?

    90 :

    普通の読解力してればモバPだってわかるからだろうな

    91 :

    >>このひでぇ戦争で死んじまった奴等が、この先の十年、三十年、遠い未来の、平和な時代を生きることが出来たとしたら色んな事をやったんでしょうなぁ

    実際の戊辰戦争や第二次世界大戦でも死ななくても良い有能な人間が何人も死んだんだろうな……
    このPは生き残る事ができたんだろうか

    92 = 91 :

    過去編を読み込む事によって今生パートでの二人のやり取りの意味がだいぶ違ってくるな

    93 :

    相変わらずの時代考証と文章能力と楓さん愛だな
    これだけ揃えばもはや自己紹介しているも同然

    94 :

    酉ググっても短編数本しか見つかんないんだけど、長編とかの過去作あるなら教えてほしい

    95 :

    くっせぇ駄文垂れ流す前にモバつけろよ

    96 :

    相変わらず>>1の楓さんSSはグッと来る文章が多くて没頭する…

    あ、メール欄にsageの他にsagaも入れると、死ぬとか殺すとかの物騒な文章も表示されるので、今回みたいなSSを書くときは入れたほうが

    97 = 91 :

    どっちにしろスレタイは変えられないんじゃない?
    まさかガイジひとりのためにスレを建て直せと?

    98 :

    触れるなよ
    どうせ何言われても聞かないから

    99 :

    貴女が[ピーーー]というのなら、



    貴女がそうしろというのなら、

    とお読み替え下さい、たびたびすいません

    100 = 1 :

    トイレのドアノブがぶっ壊れましたが、なんとか帰ってきました。
    出勤まで少し時間があるので、再開します。


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