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    元スレ高垣楓「君の名は!」P「はい?」

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    1 :

    シン撰組ガールズ回を見ていて思いついたお話です。
    エロssを書く合間に書いていたらなぜか先に完成してしまいました。

    ※注意

    地の文多しです
    長めです
    歴史もの要素があります。

    よろしければご覧ください。
    長いので数回に分けて投稿します。

    SSWiki :http://ss.vip2ch.com/jmp/1524043893

    2 = 1 :

    「――――を、最近ようやく観まして」
    「へえ」

    思いついたように楓さんが、そんなことを言った。

    「Pさんはご覧になりました?」
    「公開初日に行きましたよ」
    「あら、さすがですね」
    「公開前から話題でしたからね。芸能プロデューサーとしてそういうリサーチの手間は惜しみませんよ」
    「後悔しないプロデュースを心掛けたいですものね」
    「41点ですね」
    「えーっ」

    まあ、楓さんの話題が思い付きでないほうが少ないのだけど。
    そんな子供みたいに膨れたってダメです。
    これでも甘い採点ですよ、貴女は30点や20点出すと本気でヘコみますから。

    「ラストシーン、逢えないんじゃないかとやきもきしてしまいました」
    「ああー……あの監督ならやりかねませんからね」

    前々からのあの監督のファンは、きっとあのシーンをヒヤヒヤして観ていたに違いない。

    「Pさんは、遠距離恋愛のご経験は?」
    「ありませんね、あいにく」
    「実は地元に残してきた生き別れの幼馴染みが」
    「無いですって」

    なんですか、生き別れの幼馴染みって。
    それ単純に疎遠でしょうよ。

    「そもそも、ぼくが東京に出てきたのってあんまり前向きな理由じゃないですからね。新卒で入った会社が何年もしないうちに倒産しまして」
    「とうさん」
    「ド田舎すぎて再就職出来るような先もありませんでしたから、体当たり的に身一つでこっちに出てきたんですよ。言っちまえば、破れかぶれってやつです」
    「とうさん……はーさん、ひーさん……いや……」
    「無理矢理過ぎませんか?」

    他人の苦労話も笑い話に変えようとするポジティブさはすごい。

    3 = 1 :

    「まあ、それでいま、こうして楓さんと仕事出来てるんですから、世の中わからないものですけどね」

    いや、もはや笑い話以外の何者でもないか。あのまま地元に引きこもってたのなら、これほど毎日面白おかしく過ごす人生では無かったに違いない。
    気苦労もそりゃ多いし、毎日気忙しいけれど。

    「そうですね。私も貴方に逢えました」

    そんな僕の胸のうちを読み取ったのか、なにかたくらんでる、あの笑みを浮かべた。

    「「それもまた結び」」
    「……ですねっ、ふふっ」

    映画のキーワードが狙い通り俺とハモったのが面白かったのか、楓さんはくすくすと笑う。
    打ち解けるまで時間がかかるから、外向きにはずっと「神秘の女神」のイメージだけど、実際の彼女はとてもひょうきんで、本当にどうでも良いことのなかにもポイントを見つけて、よく笑う。
    この人はきっと、箸が転げても面白がってるんじゃないだろうか。
    ……きっと、笑うんだろうな。また掛かってるんだか掛かってないんだかよく分からない駄洒落で。
    なんて洒落を飛ばすかはわからないが、その時の表情は……あぁ、ありありと想像できる。

    「あ、失礼な事考えてる」
    「今日も暑くなりそうですねぇ」
    「あ、露骨に話そらした」
    「……楓さんはどうなんですか? 地元にそういう……残してきた人、なんかは」
    「……ふふっ。さあ……どうでしょーか?」

    僕よりも若干高いくらいの身長の彼女が、両手を後ろで組んで、頭をかしげるようにして見上げてくる。
    その悪戯な笑みに、おもわずこちらは面映ゆくなってしまう。

    「Pさんは信じますか? そういうの」
    「え?」
    「前世の結びとか、縁(えにし)とか、そういう、運命みたいなものです」

    左右で違う風に輝く瞳は、時々本当に吸い込まれそうな錯覚に陥る。

    「ぼくは……」

    碧の瞳の奥に棲まう虹彩の輪が、僕の意識を絡めとろうとするようだった。

    4 = 1 :

    「――――――信じませんね。僕は、信じません」

    わりとはっきり、言ったかもしれない。
    その時、彼女はどんな顔をしただろうか。

    「二度目、三度目があるなんて考えたら、きっと甘えちゃいますから。生きてる間の事は、生きてるうちになんとかしなきゃ駄目だと思います。万事、後がないと思って臨むのみです」
    「……なんか」

    ぱちくり、と、大きな瞬きをした。

    「お侍さんみたいですね、Pさん」
    「へ?」
    「ちょっと“弾正じゃ、弾正久秀の仕業じゃあ”って言ってみてください」
    「うるっせえですよ高垣」
    「“謀ったか三郎右衛門尉”でもいいので」
    「クーデターですか? 僕クーデターされんの?」

    なんでそんな腹黒いやつばかりなんですか。
    こないだ楓さんの出演した時代劇、江戸時代の話じゃないでしたっけ。そいつら戦国の謀将なんですけど。

    「私は……信じたいですね」

    ひとしきり僕をからかったあと、おもむろに言う。

    「信じたいです。縁えにしがあるということ」
    「そう、ですか」

    にっこりと、笑う。
    それをみたら、僕も笑うしかなかった。

    (……貴方に逢えました、か)

    そりゃあこっちの台詞です、なんて。
    言わないですけどね。

    「あ、そうだ」

    一瞬の沈黙ののちに、ポン、と楓さんは両手を叩いた。

    「お侍さんと言えば、私の地元に侍神社ってあるんですけど、その近くに隠れ温泉が有ってですね」
    「へえ」
    「明日はオフですよね」
    「そうですね」
    「そこで一日のんびり過ごすというのはいかがでしょう」
    「ああ、いいんじゃないですか? 久しぶりにご実家や地元の友人とも会ってきては」
    「あら……いきなり実家へごあいさつ下さるなんて、気が早いですね、プロデューサー♪」
    「え?」
    「私、電車と温泉の予約しておきますので、荷造り、しておいてくださいねっ」
    「……え、ちょっと待って下さい!? 僕も行く流れなんですかコレ!?」
    「……?」
    「いや意味わかんないみたいな小首かしげないで! ていうか、私明日仕事! 聞いてますか楓さん? 楓さーん!?」

    5 = 1 :

    「信じたいです。縁えにしがあるということ」 →「信じたいです。縁があるということ」

    で、お読み替え下さい、スミマセン。

    6 = 1 :


    ◆◆◆◆

    『泣くなよ、楓。泣くんじゃない』

    膝を抱えて泣く少女に、男の子はどうすることもできず、背中をさすった。
    目の前に横たわる故郷の川は、何も語りかけてくることはない。良いことなど何もなかった故郷であるけれども、年端もいかぬ二人にそれでも、何も応えてはくれなかった。

    『泣きっはらしたらな、泣きぼくろになってしまうぞ。泣きぼくろが出来たおなごはな、一生泣くことになってしまうんや。俺はそんなん、嫌じゃ。楓は、笑ってるほうが絶対にええ』

    大粒の涙が流れる瞳は、緑と青が融けた絵の具のように混じる、互い違いの妖瞳である。
    猫の瞳のようにきらきら光る、不思議な色をした瞳から落ちる涙を、男の子はまるでほほを濡らさせまいとするかのように、両の親指で何度も何度もぬぐった。

    『泣いてなど、おりません』

    ずび、と、赤い鼻を鳴らして、少女は唇をキッと結んだ。

    『楓は、悲しいことなどありません。楓はうれしいのです。どうして泣く事があるのです』
    『泣いとるじゃないか』
    『泣いてません』
    『泣いとる』
    『泣いてません』
    『じゃあそれはなんじゃ』
    『心の汗です。』
    『……』
    『大人は、目から心の汗が出るんです。まだ童のおまえさまには、わからないでしょうけど』

    男の子の小さな両掌にすっぽり収まったまま、りんごのようなあからほっぺがうそぶいた。

    『楓は、うれしいのです。ほんとう、ですよ』

    きらきらの眼は、真っ赤になってしまっている。

    『楓は、京でたらふく白いおまんまさ食べて、綺麗なべべを着るのです。そしたらととさまもかかさまも、腹いっぱい食べれて、この冬さ越せるのです。
     こったな妖瞳の気味の悪い子供でも、みなのお役に立つことができます。楓にはもったいない果報な事です。』

    零れ落ちそうなふたつの目がぱちぱちと輝いたとき、男の子はたまらなくなって、遮二無二、少女を抱き締めてしまった。
    そうするほかに、その子が出来ることは何も無かったからだ。

    『……そうやな。京はきっと、ええとこじゃろな。ええことも、いっぱいあろうな。こったな村より、ずっと。友達も、いっぱいできるぞ。新しいおっかさんも、きっと雅でええ人に違いねぇ』

    7 = 1 :


    少女の小さな頭を胸の中に、しまい込むように抱いた。
    楓の強がりが、心臓の鼓動が送る温さに融けていき、やがて、しゃくり上げるような嗚咽に変わる。
    男の子はぎゅっと目を瞑って、一層きつく、楓の頭を自らに押し付けるように強く抱いた。

    ――どうか、楓の涙が、俺の胸の奥に少しでも、移っていってはくれねえじゃろうか。
    堪えきれぬ涙と共に流るる辛さを。ほんの少しだけでも、俺の胸に置いていって、楓の心を軽くしてはくれねえじゃろうか。

    『こったな気味の悪い目ばしてて、好かれるはずがなか。ぶきっちょでろくに手伝いも出来んし、きっとすぐ捨てられます』
    『馬鹿言うな。おまんは綺麗じゃ。ずっとずっと言うとるじゃないか。おまんは綺麗で、おぼこい。それになにより、優しい。きっときっと好かれる』

    "島原に行けば白いおまんまが食えるよ、綺麗な着物も着られるよ"

    そったな謳い文句が嘘っぱちだということは、子供だってわかっとった。まして楓はおつむが良え、自分が売られてゆくのだという事は、はっきりわかっておったに違いねぇ。
    白いおまんまをたらふく食うのは、ろくすっぽ楓のことを可愛がらぬまま売り飛ばしてしまう、楓の父どと母がだけじゃ。

    ――楓はその引き換えに、これから地獄のような苦労を背負わされるはめになる。

    瞳の色が互い違いというだけで疎まれ、人より少し口下手というだけで、己が貧乏の大本のように責められ。
    捨てられて行く先でも、どうせまた捨てられてしまうのじゃと怯えておる。
    自分の幼さが憎らしかった。腹の足しにもならない気休めを、語りかけることくらいしかできない。

    『そったなひょうげたこと言うの、おまえさまだけです。楓という名前だって、きっと楓は忘れてしまいます』
    『ほなら俺が呼んだる。うんざりごたるほど呼んだる。おまんの名を。楓、と。天下の誰もが、たとえおまん自身が忘れたとて、俺が忘れん。おまんの耳元で呼ばわって、必ず思い出させちゃる』

    肩を柔らかに掴んで、楓の顔を上げさせる。
    真っ赤に泣き腫らした目に、綺麗な顔立ちも涎と鼻水でぐちゃぐちゃじゃ。

    『のう、おまん、歌が好きじゃろ。』

    男の子は、少女に向けて、にかッと笑った。

    『おまんはひとりになると、必ずここで歌った。俺はその声で、いつでもおまんに会いに行けた。おまんの綺麗な声は、きっと京でも人気になるぞ。遠く離れた京からでも、必ず俺の耳に届く』

    8 = 1 :

    うまく笑えていたのかはわからぬ。
    じゃが、楓に笑えと言いながら、男の己が泣くわけにはいかぬと思うた。
    ゆえに、少年は、精一杯の力を込めて笑顔を作った。

    『たとえ千両でも用意できるようになれる立派な男になって、おまんを迎えに行くから。じゃから、俺がいのいちに見付けられるように、天下一等の歌い手になってけろ』

    このとき、この少年の生きる目的が、その意味がはっきり決まったのだ。

    9 = 1 :


    「見棹屋ぁ、鯉風太夫、道中まかりこしまするゥ」

    月明かりに浮かぶ、紅の着物。禿が両袖を胸に添え、きんきら声を張り上げる。
    しゃなり、しゃなり。
    花車の後ろから、内八字を練る三本下駄。
    その艶姿が島原提灯に露にされた瞬間、沿道でやんやと喝采していた群衆の声が、ぴたりと静まる。
    美しかった。ハッと、息することを忘れるほど。

    ――慶応三年の冬、天下は荒れていた。史上例をみない冷害と飢饉が毎年のように続き、民衆は疲弊していた。加えて諸外国の干渉による政情不安、反体制派によるテロリズムとその取り締まりで、連日血の雨が降った。
    洛中は脱藩者やお役目を放棄した御家人くずれ、元は武士ではなかった農民町人出の金上げ侍ややくざものが溢れ、社会秩序の崩壊を如実に顕していた。

    まさに、乱世である。

    そのような末法の世にあって、島原の花魁たちはまさに時代の最後の残り火の如く、妖しくも鮮やかに咲き誇っていた。

    「見棹屋ぁ、鯉風太夫、千尋屋さんまでえ、道中まかりこしまするゥ」

    朱の番傘に美白面、白百合の精が人に化けたれば、このような出で姿であろう。
    寄って見ればその双眸は、右と左で輝きが異なる。色の違う二つの空が映されているかのようだ。

    「はぁ……綺麗やなぁ。なんやうち、ため息出てしまいそうやわぁ」
    「島原の太夫いうたらお天朝様から正五位を下賜されとる格式やからなぁ。しかも鯉風太夫はあんどえらい別嬪さだけやのうて、歌と舞は迦陵頻伽の如しやっちゅうで。ほんま生身のおなごとは思われへんな」
    「なーんや詳しいなぁ。まさか、あんたはんのお馴染みやないどすやろな?」
    「滅多なこというなや。太夫のお相手言うたらおまえ、十万石のお大名様で、身請けなんちゅう話になったら千両ものの銭の話や。
     わしみたいな木っ端商人の倅じゃあ、遊びとォてもとてもかなわんわな」
    「ほーん……お矢銭があったら遊びたい思わはるっちゅうことやんなぁ。そやろなぁ、背丈もすらーっとしてはるしなぁ。
     うちみたいなちんちくりんじゃあ、あんたはんにもよう満足してもらえへんのやろしなぁ」
    「いけずすんない、お紗枝、去年の祇園祭り一緒に行けへんかったこと、まだ根にもっとるんか」

    ふと、見物する京雀たちに太夫が流し目を遣り、笑顔をにじませた。
    これに、目が合ったとばかりに男が思わず鼻を伸ばして手を振ってしまったのがいけない。
    傍らの少女が可愛らしい顔に険を作って、思い切り男の腰をつねった。

    「ぎゃおっ!?」
    「ふんっ、お・き・ば・り・や・す!」
    「ちょっ、すまんかったって、お紗枝、待ちや、お紗枝」

    10 = 1 :


    「――――おまねき頂き、ありがとうございます。見棹屋鯉風太夫、ご逢状承り、ただいままかりこしました。」

    気の狂うような鮮やかな朱色の天井と金屏風を背に、上座からうやうやしく頭を下げる。

    「……公卿の座敷にでも赴くが如き道中、窓から見ておったが、贅沢というべきか、嫌みというべきか」

    筋金が入ったように腰をピンと立てて座した侍が、何とも言えぬ表情を浮かべた。

    「それと、そのうやうやしい口調も、よしてくれぬか。やりにくくてかなわん」
    「……そうどすなあ。お前様がそのだんだら羽織、脱いでくれはったら、童の頃のように話してもよいでありんす」

    にっこりと笑った太夫のまなじりに、たちまち侍は、腰に立てた筋金がくずおれてしまった。

    「もとは紀州の百姓ですやのに、久しぶりに会うたら尊王攘夷だの公武合体だの言うて血の雨降らして。そんな危なげな事に首突っ込まはってたとは、まったく夢にも思うてませんでした」
    「おまんもその紀州の百姓じゃろ。すっかり京者が如きしゃべり方になりおって」
    「お前様は、童の頃からちっとも変っておりませんね」

    つん、と太夫は澄ましているが、侍はすっかり砕けてしまい、胡坐をかいた膝に肘をつき、酌を受ける。

    「……おまんは」

    ちびり、と口をつけ、ぼそり。
    口当たりはするりとした、京流の伏見酒であった。

    「……美しゅう、なった。あの日の言葉通り、押しも押されぬ天下一の芸者じゃ。まったく天晴よ」

    侍が酌を返す。太夫の妖瞳に節くれだった手が移り、同時にほのかに香った、血の匂い。
    それを認めて、不意に太夫の杯が乱れ、酒がこぼれた。

    11 = 1 :


    「おっとっと」
    「……なんして」

    ひょうとした声の侍と裏腹に、太夫は絞り出すような声を、耐えるように零した。

    「なんして、こったなところまで来てしまいんしたの。十月に公方様が大政を奉還なされて、世の中はますますどうなるかわからん。
     お前様はわっちの事など忘れて、村で嫁でも貰うて大人しゅう百姓をしておれば良かったのに、なんしてよりによってこのどん詰まりの土壇場に、二本差しを気取ってこったなところまで来てしまいんしたか」

    噛み切るように、言葉をつむぐ。
    ぽたり、ぽたりと、堪え切れぬ雫が畳を濡らした。

    「泣かんでくれよ、楓」

    侍の手が頬に添えられ、昔のままの声色で名を呼ばれた。

    「泣いてたら泣きぼくろが出来てしまうぞ。涙の筋にほくろが出来たおなごは、一生泣く事になってしまう。」

    昔日の記憶が、太夫に蘇った。
    貧しい百姓の子であった頃、まだ親に貰った名で呼ばれていた頃。
    左右で色の違う妖瞳を気味悪がられて、村ではひとりも友達が居なかった。
    一人で膝を抱えてめそめそとしていると、この男は決まってどこからともなく飛んできて、このように言った。

    『楓、くよくよすな。泣きぼくろになってしまうぞ。泣きたくなったら、洒落のひとつでもうそぶいて、笑い飛ばしてやればええんじゃ』

    涙を拭う親指を、太夫の掌が捕まえる。
    この手から、血の臭いがこびり付いて離れない。
    お前様は、この手で人を斬ってしまいんしたのか。
    あの時と少しも変わらぬこの優し気な手で、人を斬ってしまいんしたのか。

    「楓。昔から言うとるじゃろう、おまんは笑顔が一番じゃ」

    12 = 1 :

    六つか七つの頃、売られてゆくわっちにお前様はこういいあんした。

    『のう、楓。どうせ芸者になるなら、天下一の芸者になってけろ。わしも天下に名乗りさ上げて、おまんの座敷ば呼ばれるような男になる。じゃからその時まで、決して泣くな。泣きたくなったら上向いて、洒落でも言うて笑い飛ばせ』

    幼い時分とて、賢いお前様ですから。売られていく、というのがどういうことかはわかっていたのでしょう。
    拳を固めてぶるぶる震わせながら、それでもニッカリと笑ってくれあんした。

    そん言葉だけを糧に、わっちは今日までやってこれたようなもんであんした。

    お前様はそう言ってくれあんしたけど、島原の芸妓とお百姓が一緒になることは無理でござんす。ゆえにわっちは、同じ空の下に生きていてくれるならそれで良いと、芸の道に努め、辛いしきたりも姉さま方からの折檻にも耐えられあんした。

    よしんば来世のご縁におすがり出来たら、それでええなと思いながら。

    「ばか」
    「ばかか、わしは」
    「ばか、あほ、ぼけ、唐変木、すけこまし」
    「そこまで言うか」
    「……お前様は、ばかです」
    「すまん」
    「虫も殺せないような人のくせに」
    「……すまんな」

    会津中将様のお座敷にお呼ばれ致したとき、お廊下にはべり、氷のような眼をして一分の隙もなく座していたお前様を見付けてしまった時、心の臓が止まるような心地でした。

    13 = 1 :

    『浅葱のだんだら血に染めて、四条の辻を鬼が通る』

    数年前の池田屋と蛤御門の事変の折より、京でその名を知らぬものはありんせん。
    いかな貴人であろうとも、お役目とあらば問答無用で叩き斬ってしまう、泣く子も黙る恐ろ恐ろしい壬生浪。
    否、壬生狼の事でござんす。
    わっちが、過ぎた望みを胸に秘していんしたから、御神仏さまがかような悪戯をしてしまいんしたか。
    お前様が日ごろ言っていたような、下らぬ洒落話であれば、何かの見間違いであればどれほど良かったことか。
    お前様は、あの時と変わらぬ顔のまま、人斬りの顔になってしまっておりました。

    「……お逢いしとう、ございました」
    「……わしもじゃ」

    わっちが、どれほどその想いを胸のうちで焦がしてきたか。
    その一念が、わっちを今日まで生かしました。
    今生では叶わぬであろう思いつつも、せめて一目、息上がる前に、そのように夢想して、雨の日も風の日も、なんとか生きて参りやんした。
    まさかこったな形になろうとは。
    およそ、人斬りなぞ出来るようなお前様ではございませんでしたのに。
    どれほど身と心を削ってこられたのか。
    この先、血にまみれた末の報いが来ぬわけはございませぬのに。

    「……お前様は」
    「うん」
    「来世のご縁というのを、信じておりますか」

    世の中の行く末がどうなるかわからずとも、人を斬り続けたお人の行く末がどうなるかは、明らかです。
    その知れ切った往生の、わからぬお前様ではありますまい。

    「信じぬよ。わしは信じぬ」

    まして尊王攘夷だの大義だの、そんな志士めいたお題目をただの百姓であった、お前様が胸に秘めていたわけではありますまい。
    幼い日の、とるに足らぬままごとのような約束を守るために、生き方も変え、何もかも棄てて、こったなところまで来てしまいましたのでしょう。
    もはや引き返せぬところまで、来てしまいましたのでしょう。

    「今世の縁は、今世のうちに果たさねばならん。来世の縁にすがって望みを託すなど、男子の生き方ではあるまいよ」

    お前様は、ばかです。

    14 = 1 :


    「楓、歌を聞かせてくれんか」
    「……歌、ですか」
    「ああ、おまんの歌。皆が我が事のように語る。ご天朝様ですら聞き惚れたというおまんの歌。わしにも聞かせてくれ」
    「……約束してくれるのでしたら、良いです」
    「なんじゃ」
    「つまらぬ死に方だけは、絶対にしないでください。勝手に死んだら怒ります」
    「……難しいことをいわしゃるな」
    「約束を果たすおつもりなら、最後までお守りください。それを誓ってくださるのなら、夜が明けるまで聴かせてあげます」

    侍は、年端も行かぬ子供でも相手にするかのように、困り顔で頬を掻いた。

    「あいや、わかった。男に二言はない。誠の旗に誓って、おまんが許しなく、わしは死なぬ」

    15 = 1 :

    ◇◇◇◇

    「どうして、ここにいるの。教えて下さい……今すぐ」
    「初代デジモンの主題歌って伝説ですよね、わかります」

    和歌山行きの特急列車にて。
    かたや、仏頂面のプロデューサー。
    隣り合うのは、しれっとして小宴会の用意をする高垣楓。

    「私、進行方向に向かった席じゃないと酔っちゃうんです」

    と、今まで一度も乗り物酔いなどしたことのないはずの楓さんの強弁で、隣り合いの席になったまでは、このさい良い。
    たが、プロデューサーにとって仕事詰めであったはずの1日が、急に楓さんのオフに合わせる形で、丸一日白紙になったのはどういうわけだろう。

    17 = 1 :

    すみません、用事があり一旦中座致します。
    改行、難しいですね……

    19 :

    21 = 1 :

    戻って参りました。
    再開します。

    22 = 1 :

    ハイボール水割りセットとビーフジャーキーを車窓の縁に用意しながら言う楓さんに、プロデューサーは思い当たって目を逸らしてしまう。
    ……僕、プロデューサーは前に一度、連日の過労が祟って倒れてしまった経験がある。
    幸い、点滴を打って丸二日病院のベッドでゆっくりしたらすぐに快復したのだが、あのときは相当に心配をかけてしまった。

    「プロデューサー、一番最後に全休を取ったのはいつですか?」

    答えられない。少なくとも一ヶ月は前だ。
    なにか、悪戯が先生にばれた子供のような気分になる。

    「プロデューサー」

    プシュ、と、缶ビールの栓を開ける、この綺麗な横顔に気圧される。

    「もう一度同じことを繰り返したら、本当に怒ります」
    「……はい」
    「無茶はめっ、ですよ」
    「……ええ」
    「……心配するんですから」
    「……おす」

    ……僕が倒れたときの、楓さんの事を思い出す。
    案外、意識を失っていたのは数十分そこらだったらしく、現場から僕が倒れた知らせを受けた楓さんが、病院に来てくれたときにはもう、僕は目を覚ましてのんきに軽食を摂っていたのだが。
    あの時は確か、部屋の扉を、楓さんにしちゃずいぶん乱暴に開け放って飛び込んできて。
    僕が手を挙げて挨拶したとたん、ぺたん、とその場に腰を抜かしてしまった。
    ……そのあと、ものすごい剣幕でしこたま怒られたことを覚えている。

    23 = 1 :


    『――――ばかっ』

    『なんで自分の事をそんなに粗末にしちゃうんです、どうして自分を大切にしてくれないんですか』

    『約束してください、二度と身を削るような無茶はしないで。あなたが私の為に傷付いてしまうのなら、何の意味も無いんです』

    ……本当に普段、一緒にいるあの穏やかな楓さんなのか、と。思わず気圧されたくらい、すごい迫力だった。
    思い出している間にもうひとつ、プシュッと開けて、楓さんは銀色の缶を僕に差し出す。

    「女性を泣かせたのに行動を改めないなんて、私はプロデューサーをそんな子に育てた覚えはありませんよ?」
    「ぐっ……」
    「プロデューサー君は、約束を守れる素敵な子ですね?」

    ああ、もう、色々言い返したいけど言い返せねぇ。

    「……それとも、私と二人きりじゃお嫌でしたか?」

    ひとしきり僕を責めた後に、オッドアイが、少ししゅんとしたように笑った。
    ……彼女は結局、僕より一枚上手なんだな、と、こういうときに実感するのだ。
    この上でそんな顔されたら、ぼくはもう、文句なんて言えないじゃないですか。

    「……生中一丁乾杯」
    「……乾杯♪」

    缶同士がタッチする、少し間抜けな音がした。
    お疲れ様です、も、文字通り乾杯、も。
    ありがとう、も、どういたしまして、も。心配かけてごめんなさい、も、わかってくれればいいんですよ、も。
    ……嫌なワケがないでしょ、も。
    僕たちの間では、アロハくらいたった一言でいろんな意味が表せる、それはそれは便利な言葉だ。

    24 = 1 :


    ◆◆◆◆


    ――――はあ、お勤め料の他に、不貞の輩を斬るか召し捕れば一両、士道不覚悟の者を介錯せば三両。死番を務めれば五両で、大物捕りなら十両でござんすか。
    ほなら、百人斬れば千両ですな。
    そったな怪訝な顔をなさいますな。俺は卑しい百姓なれば、大義や士道やとお題目は言わね。
    俺は何がなんでも、銭ンコ稼がねばなんねえのす。
    この身は悪辣魔道に墜つるとも、五百両でも千両でも稼いだる。百人だろうが千人だろうがぶった斬ったる。
    おまんが自由になるのなら、あとは何がどうなろうがかまわね。だどもその時までは、俺は絶対、誰にも斬られね。
    あと、ちょっとの辛抱じゃ。
    待っとれや、楓――――

    25 = 1 :


    「派手な捕り物だったようだな、お疲れさん」

    瓶かめに顔を突っ込んでガブガブと行水していると、ふと背後から声を掛けられ振り返った。

    ――この男の、人を斬った後は本当にわかりやすい。

    血で血を洗う新撰組でも、十本の指のうちに入るほど多くの人を斬って来たであろうに、こいつはいつまでも慣れぬように、奪った命がのしかかってくるようなでろんとした隈を目の下に作って、それを洗い流すように、遮二無二ざぶざぶと頭から水を被るのだ。

    こいつはいつもそうだった。隈の濃さも、浴びる水も、日ごと増した。

    「――ああ、川島さん」
    「よく毎度、器用に生け捕りに出来るもんだ。薩長の賊ばらなんぞ、ぶった斬ってしまえばよかろうに」

    川島は男とは同時期入隊で、もう五年も同じ釜の飯を食った中だが、この男の働きぶりをよく知っている。
    不逞浪士の取り締まりは元より、市中戦闘、死番突入、仲間の介錯や粛清。
    命のかかる場面、誰もが躊躇する嫌な仕事、そういうヤマに決まって進んで名乗りを上げ、必ず相応の働きをした。

    「……ま、斬り死にしていたほうがよほどマシだったと思うかもしれんがね」

    川島の言葉には、言外の意味があった。
    鬼の副長の詮議とは、なまなかのものではないからだ。それこそ死んだ方がマシ、というほどの。
    釈放されたときにはもう、人間の形をしていなかった、ということは、少なくなかった。

    「世の中はかまびすしいが、勤めは変わりませぬゆえ。褒美も変わらず出ますしの」
    「明け透けに褒美褒美と申すな。士道不覚悟で腹切らされるぞ」
    「あいやー……」
    「お主、八木殿から持ち掛けられた縁談を断ったそうだな」
    「ええ? あぁ、ははは」
    「櫻井家は神戸港を本拠とする大商家だ。そこの入婿となれば五百や千両の金は右から左となる。銭金にこだわる貴様の事だから、飛び付くものだと思っていたが」

    26 = 1 :

    男は、困ったように、というか、ごまかすように目を逸らし、頬を掻いた。
    このへつらうような愛想笑みが、いかにも百姓らしいと感じる。
    この時代において、少なくとも武士道を鉄血の掟とする隊内においては、それは決して好ましい印象では無かった。
    川島は無性に苛立ち、水の滴る胸元の、濡れた襟をむんずと鷲掴みにした。

    「貴様この期に及んで、まさかあの芸妓とどうにかなるなどと思うておるのではあるまいな」

    へらへらのへつらい顔が、すっと無表情になる。
    人を斬る時の顔だった。
    しかし、川島は構わず続けた。

    「志も士道もなく、食い詰めた末に人斬りとなった百姓出のにわか侍めが。所詮、武士でもないくせに、なぜ徳川のため命を懸ける。
     天下に確たる大義もないまま、銭金の為にいつまでその手を血に汚す。にっちもさっちも行かなくなった身の上の貴様を、
     どうにかしてやろうという八木殿の親心がわからんのか。」

    その言葉で、男の無表情は、とたんに悲しげなものに変わった。
    辛辣な言葉と裏腹に、川島の目には涙が溜まっていた。

    「どん百姓にもわかるように教えてやる。幕府は負ける。長州の征伐にしくじったばかりか、10月には大政奉還、今月には王政復古の大号令で、
     こともあろうに我々が不逞浪士としてぶった斬ってきた長州と、裏切り者の薩摩が手を結び新政府だと。外国と結んだ奴等の軍備は幕府軍を上回る。
     この京とて明日にでも戦場になるやもしれんのだ。そうなれば我らは捨て石になる。わかるか。
     こんな泥舟はな、さっさとうっちゃってどこぞに逃げてしまうのが賢いのだ。」

    神戸は、外国による治外法権が認められている。桜田門外にて暗殺された先の大老・井伊直弼が不平等条約にて認可せざるを得なかった治外法権のことだ。
    王政復古の大号令では薩長の新政府が樹立したゆえ、幕府は解体し佐幕派はただちに野に下れという。そんな無体な話を突き付けられても、将軍や老中はああでもこうでもないと無意味な合議を繰り返すばかりだった。
    そうこうしているうちに、土佐を通じてイギリスから最新武器をズラリと買い揃えた薩長が京の目鼻の先まで詰めてきていていた。
    この時すでに、将軍は単身、大阪に退いていた。会津や新選組は京に置き去りにされていたのだ。

    27 = 1 :

    「……貴様はっ、大馬鹿ものだっ! 皆が皆をして逃がそうとしているのに、なんでその理不尽を押し通そうとする。貴様はさっさと商家の若旦那になるか、さもなくば紀州に帰って百姓に戻れ。
     ただ一人の揚屋の女の為に知れ切った死に船に乗るつもりか。馬鹿か、貴様はっ。」

    神戸や横浜など、外国人の居住する治外法権区を攻撃すれば国際条約違反として諸外国の干渉を招く。幕府も新政府も、それは避けねばならなかった。
    ゆえに、そこならば、戦禍も追っ手も届くまい。
    八木殿とは、彼らが上洛以来、陰に日向に支援してくれた八木源之丞殿である。壬生第一の郷士であり新選組最大の支援者である八木氏の縁談には、幹部たちの意向も汲まれていたことは多分に違いない。

    「侍が百姓と死ぬことはできぬ。とっとと立ち去れ。戻ってくるな」

    新選組に明るい明日がないのはわかりきっていた。討幕派の志士たちを先陣駆けて斬りまくった、最前線の切り込み隊長なのだから。薩長は新選組だけは決して許さぬ。
    それも、時勢であるなら仕方ない。殺し合いの果てに己らの因果が己らに返るだけだ。
    ゆえに隊内でもっとも人斬りの似合わぬこの男を、どうにか生かせぬものかと考えたのは、けだし人情であろう。
    世話焼きの代名詞・土方副長の発案か。いや、それはやはり、死と隣合わせの時間を足掛け五年も共に過ごした者たちの、声にはしない本音であったように思う。

    ――――死ぬのは、俺たちだけで十分だ。

    涙として流れる川島の、決して言葉には出来ぬ、してはならぬ本音であった。

    「川島さん、あんたは優しいな。」

    そいつは、優しい声をしていたような気がする。

    「他人の為に涙を流して下さる。強くて、やさしい。瑞樹天神も、そんなとこに絆されたんでしょうな」

    にっこりと、柔らかく笑う。

    「本音と建前がいつも違う。侍ってのは大変な生き物ですな。けんど、わしはあんた様方の如き、鴻鵠の志も気高き義もござりませぬ。
     仰る通り、銭ンコのために人を斬り申した。銭ンコのために人を斬り、女に入れ揚げ申した。」

    睫毛が長く、それは震えているようにもみえた。

    「わしは、おまんの仰るように、どん百姓です。いつだっててめえの事だけしか考えられねぇんです。
     おまんの……皆様のお情けは涙の出るほどありがてぇけども、一介の百姓に過ぎぬわしには、その情けに応えられる器を持ちませぬ。申し訳ねぇ」

    胸倉をつかむ川島の手を剥がしたのは、意外なほど小さく、なよやかな手だった。

    28 = 1 :


    「――――あ、せんせぇだ!! せんせぇーーーー!!!!」

    場にカンと日差しが射すような、底明るい声だった。

    「おー!」

    男の表情は、その声の方向にぱっと明るんだ。
    声とともに走り掛かってきた子を受け止めると、次々に子供らが駆け寄って来る。たちまちに腕やら背中やらにへばりついて鈴なりになった。

    「あーせんせぇ! 川島せんせいの事泣かしたの!?」
    「ケンカはダメでごぜーますよ! ケンカはダメだってせんせぇがいつも言ってやがるじゃねーですか!」
    「いやいや。川島先生は偉い武士じゃ、武士が人前で泣くはずがなかろ。先生はな、心の汗を出しておられたんじゃ」
    「心の汗は目から出るですか?」
    「そうよ。薫も仁奈も大人になったら目から心の汗が出るんじゃぞ」
    「そっかー!!」

    男は子供らの目線に膝を付き、愚にもつかぬ冗談でからからと笑っている。
    新撰組では、目上の隊士を「~先生」と呼ぶ慣習があった。川島や彼も古参の隊士からしばしば先生と呼ばれるから、子供らもそれを真似して先生と呼ぶようになった。
    もっとも、子供らが男を先生と呼ぶときの響きには、なにかそういうおしきせの決まり事ではない、寺子屋の先生や若い父親を呼ぶような、自然な親しみを含む響きがあった。
    子供は概して子供好きの大人になつくものだから、そういうことかも知れなかった。

    「なーせんせー、剣術教えてくれよ。せんせーは実は物凄えつえーんだって、こないだ見舞いに行った時に、沖田せんせーが言ってたぜ」
    「晴ぅ、お前はもっと女子らしゅうせい。嫁の貰い手が無くなるだろうが」
    「っ……お行儀よく嫁入り修行なんてしてるばあいかよ! 薩長のやつらはすぐそこまで来てんだぜ!」

    げしげし、とかかとを蹴っていた少女が、頭をがしがしと撫でられると、しばし撫でられた後に、びしっ、と拳を勇ましく向けた。

    29 = 1 :

    「おい、ワシも剣を取って戦うぞ。薩長なんぞ一捻りじゃけぇ、二度と京に火つけなどさせん」
    「ほんとにお前らはのう、せっかくの別嬪じゃというのになんと猛々しい……」
    「……せんせい」
    「ん? どうした、雪美」

    目付きをきつくした巴のさらさらの髪を、かいぐりかいぐりとしてると、裾を雪美が引っ張ってきたので、振り返る。
    ちょこんと摘まんだ手が、震えていた。

    「どんどん焼けの火……怖かったの……昼間みたいに明るくて、熱くて……鉄砲、大砲、ごうごう……怖かったの……」

    会津藩主・松平容保の排除を目的として長州派がクーデターを起こした禁門の変は、京市中を戦禍に巻き込み、およそ三万戸が焼失する『どんどん焼け』と呼ばれる未曾有の大火事に発展した。
    北は一条、南は七条まで多くの市民が焼け出され、この際の大火が原因で現代まで修復作業が続行中である山車が存在しているなど、市民生活に多大な影を落とした。

    「心配するな、雪美」

    雪美をひょいっと持ち上げ、カタカタと震える小さな体を抱き締めた。
    禁門の変はもう数年も前の出来事だというのに、この小さな体には当時の恐怖が焼き付いて離れないのだろう。
    戦争の被害を被るのは、いつの時代も力なき者達であった。

    「なーんにも心配するな。絶対もう、怖い思いはさせん!」
    「ほんとう……? 父様も……母様も……ぺろも……怖い思い、しない……?」
    「ああ。わしらが、必ずなんとかする。雪美はいつも通り、いっぱい遊んで、一生懸命手習いばして、ぺろと一緒にぐっすり眠っておればええ」

    にかっと笑うと、雪美の小さな白い腕が、男の首筋にきゅっとしがみついた。
    川島は、胸の締め付けられるような、たまらぬ思いがした。
    新撰組とて、鉄砲や大砲の威力を知らないわけではない。まして足掛け五年以上もこの国の内乱の最前線で戦ってきた彼らが、西洋式のガトリングやスペンサー銃を相手に、関ヶ原の頃と大して進歩もしていない、チャチ弾鉄砲や刀剣素槍で立ち向かえばどうなるか、わかっていない筈がないのだ。
    せいぜい、肉の壁となって弾除けになるくらいしかやりようはあるまい。

    30 = 1 :

    「あーせんせぇ! かおるも抱っこしてよー!」
    「仁奈も! 仁奈には肩車してくだせー!」
    「おう、順番じゃ、順番」
    「……おのれはしてもらわんでええんか、晴」
    「んなっ!? も、もうそんなトシじゃねーよ! なぁ、いーから剣術やろうぜー、オレ荒木又右衛門やるから、せんせー河合甚左衛門ね」
    「いいじゃろう、鍵屋の辻の講談は、何度聴いても“まったえーもん”じゃからのう。はっはっは」
    「うわっ、さぶぅ……」
    「喋らねばええ男なんじゃがな……」

    子供らに引かれ、抱き上げ、頭を撫でる手。その同じ手で彼は、容赦なく人を斬った。
    銭のために、と、彼は言った。
    その手が、愛しい女を抱いたことがあったのだろうか。
    子供らと手を繋ぐ、陽の射した後ろ姿が、川島に語りかけた。

    ――――惚れた女に命尽くすのが、男じゃねえのか。弱ぇ女子供のために命張るのが、男じゃねえのか。
    忠義だ大志だ武士道だ、そんなのはわからねぇよ。けどな、男の死ぬ理由は、いつだって一等、それじゃねえのかよ。

    何が正しくて、何が間違っているのか。本当は彼ら自身にも、なにもわからなかったのかもしれない。彼らもまた、時代の黒潮に呑まれて行く藻屑である。
    ただ、その背中は、己の死に場所をすでに知っているのだと、川島には見えた。

    31 = 1 :



    ◇◇◇◇

    「ふふっ、また私の勝ちですね~」

    酔いどれの楓さんがくるくる笑っている。
    ちきしょう、何故だ。
    何故、電車旅の小宴会とはこれほどまでに楽しいんだ。
    座椅子は固いし席は狭いし、酒だってコンビニで買えるお手軽アルコールなのに、すごく楽しい。
    これは海の家の焼きそば現象に匹敵する。

    「それは、私と一緒に居るからですよ?」

    こいつっ、直接脳内にっ……!?

    「高垣楓と往く大人の遠足現象と名付けましょう」

    なんてこった、そんなの桃源郷じゃねえか。
    冷やせすらしない常温ハイボールが、通常の357倍は旨く感じるのも納得せざるを得ないというもの。
    ちきしょう、俺ァ一体、前世でどんな高徳を積んだっていうんだ。地上にいながらにして極楽浄土じゃねぇか。

    「というか、ぼくの頭の中を先読みしないでくださいよ」
    「……プロデューサーの考えてることを、わたしがわからないわけがありませんよ?」

    何言ってるんですか、貴方は? みたいな怪訝な顔しないでください。むしろ貴女が何を言ってるんだ。

    「ウィスキ~が、お好きでしょう……ふふっ」

    プラスチックのカップでマドラーをかき混ぜながら、鼻唄を歌っている。
    持参した氷は既に溶けてしまって、もはやただのぬるい炭酸割りだが、どうにもこれが旨い。
    めちゃくちゃ旨い。

    「もう少~し~喋りましょう……」

    柔らかい車窓の陽射しの中に浮かぶ楓さんの横顔と、融けていくようなウィスパーな歌声。
    美しさとしっとり感と無邪気さが合わさり、最強に見える。

    「どうぞ、プロデューサー」

    ありがとうございます、というと、楓さんはきちんと両手でカップを手渡し、にこりと笑った。
    女神かよ。綺麗で、気遣いできて、優しくて。
    ……楓さん、ずっと言えませんでしたがじつは僕はあなたの事が――――

    「ウィスキーが、うぃ~、好きっす! ふふっ!」

    ああ、うん。
    やっぱり、僕のよく知る楓さんだ。

    32 = 1 :



    「……さて。プロデューサーには、どんなことを教えて頂きましょう?」
    「う゛っ」

    いたずらっぽい楓さんの声で、気持ちよく干していた杯が止まる。
    僕と楓さんは、ひたすら飲み続けるだけなのもなんだということで、ちょっとしたゲームをしていた。曰く、「粗相をした方が負け」というもの。
    この粗相の範疇が相互ジャッジなのだが、例えば箸を落としたとか、酒を零したとか……
    そのうち、負けた方が勝った方の質問になんでも答える、という妙な流れが出来てしまって、それないけない。
    それをきっかけに、からかい上手の高垣さんが本気を出してしまったのである、それがために僕のプライベートやら隠しておきたい過去やらが、次々と暴かれていた。
    僕の一番最後にしたデートの話なんて、聞いてなんになるっていうんだ。そんな何年も前の、今更掘り返されたくもない恋愛未満で終わった異性交遊の話を、よりにもよって楓さんに聞かれるなんてとんだ罰ゲームだ。
    あいや、罰ゲームなんだろうけどもさ!

    「では、プロデューサーがこの間、デスクでこっそり見ていたえっちぃ動画の話を」
    「ちょっと待て高垣」

    そんな事実はないだろ高垣。ほかのお客さんが殆どいないからいいようなものの。

    「……では、最近ご連絡した女の子のLINEの履歴を」
    「そんなん見てもクソ面白くもないですよ」

    ほとんど貴女とのやりとりですからね、悲しいことにな!

    「そうですか、いないんですか……じゃあいいです。今日履いてるパンツの色でも教えていただければ」
    「そこまでにしておきなさいよ高垣」

    駄洒落お姉さんっていうより最近、ただのオッサンになってませんかねえ?
    ……結局、女性のタイプと「思わず襲いたくなるシチュエーション」とやらを、エチュードを交えて洗いざらい語らされたので、ひとしきり終わった後に楓さんが作ってくれたばかりの常温ハイボールを、やけくそ気味に一気飲みした。
    ぐい、とカラのプラスチックカップを差し出すと、楓さんはにこにこしながらお代わりを作ってくれる。
    くっそう、女神なんだよなあ、この笑顔だけは。

    ――――天使の上位互換、女神。

    僕と楓さんとでカパカパ空けるものだから、まだ目的地の和歌山まで半分も進んでいないのに、すでに一本目のウィスキーボトルは四分の三を消費していた。

    「私、プロデューサーのお酒作るの好きですよ」
    「……っはい?」

    ぼくが口をぐい、と拭うと、両手でちょこんとカップを持つ楓さん。
    楽しそうにしているだけで何も言ってこないので、受け取ってそのまま一口目を頂く。

    33 = 1 :


    「もしプロデューサーと結婚出来たら、お晩酌はこんな感じかなーって」
    「んぐっ!?」
    「……あら、また、私の勝ちですね?」

    これちょっと濃くありません、なんて言おうとした矢先にそんなこといわれりゃ、誰だって噴き出すだろう。
    嬉しそうにぽん、と両手を合わせた楓さんに……謀ったな高垣、なんて言いながら、僕は何連続目かの粗相をした。

    (――――――なんだかんだであれから8連敗だよ。もう話すことねえよ! けっこう酔ってきたし!)

    酔っているのは完全に、やけくそ気味に杯を空けていく自分のせいなのだが、しようがない。

    「梅酒は本当、うめ~っしゅね~フフフ……」

    酒に酔えば少しは手元もおぼつかなくなると思いきや、楓さんの所作によどみはない。
    駄洒落も絶好調だ。20~30点台のクオリティを連続して繰り出してくる辺り、波に乗っている。

    「うふふー、プロデューサー」
    「はい」
    「……楽しいですね♪」
    「……っ!」

    肩口に顎を預けるようにもたれてきながら、眼を合わせた瞬間の、えへへと笑った上目遣い。
    身長の高い楓さんを普段このアングルで見ることは少ない、それゆえのギャップ。
    ちっくしょう、なんだこの人。女神か、あるいは悪魔か。
    狙ってやってるなら悪魔だし、無自覚ならやっぱり悪魔だ。生まれつきの女神は悪魔に見える。
    ……それ、他の男性にやってないですよね?

    「ふふっ、さぁ、どーでしょー……――――きゃっ!!」
    「おっと!」

    ゴトン、と不意に電車が揺れたので、とっさに楓さんを抱き留めた。

    ――――ご迷惑をお掛けしております。鹿が線路上を通行するため、車両を一時停止しております。ご迷惑をお掛けしております……

    鹿かよ。
    鹿で電車が止まるなんてのは、僕の地元なんかじゃままある光景だが、こっちに出て来てからははじめてだな。
    なんにせよ、緊急事態とかではなくてよかった。

    「大丈夫ですか、楓さ……」
    「いえ、残念ながら……負けちゃいました。連勝ストップです」
    「……あっ」

    胸元に飛び込んできた楓さんの梅酒ソーダ割りが、僕の服をしたたかに濡らした。
    ……ベトベトになるな、こりゃ。

    34 = 1 :


    「さて、プロデューサー。どうぞ、なんでもお聞きください。高垣楓、なんでも答えてあげちゃいます」
    「……この権利、急に貰っちゃうと使い道に困りますね。」
    「何が気になります? 昔の恋愛の事でも、昨日の晩酌のおつまみでもなんでもかまいませんよ。」
    「うーん、いざっていうとなかなか……というか晩酌は毎晩は控えてくださいって言ってるでしょうが」
    「寝るときは右手の手枕をしないと寝られないということでしょうか?」
    「いえ、別に」
    「お風呂で体を洗う時は右のつま先から洗うってことですか?」
    「それもべつに」
    「プロデューサーは私の事なんてどうでも良いんですね……」
    「少なくともその二点に関してはどうでも良いですね」

    大体、自分から言っちゃってンもの。企画の趣旨を理解してくださいよ。
    さて、いざ聞くとなると、うーん……
    ……とりあえず恋人が居ないってことは聞いてるけど。

    『元カレってどんな方?』

    ――――やめよう。心が潰れてしまう恐れがある。

    『好きな人、います?』

    ――――いや、馬鹿かおれは!? アラサーのおっさんがなに中学生みたいな質問しようとしてんの!?
    電車旅で修学旅行気分甦っちゃったか!? 俺は確かあの頃、好きな女の子が居たけどその子は野球部のあいつと修学旅行最終日に付き合うことになって……
    ……あれ、何故だろう? 目から心の汗が流れてきたぞ?

    「大人になったんですよ……プロデューサー」

    ですから、心読まないでくださいよ25歳児。
    ていうか、流れ通りにコイバナ振る必要はなんだよな、別に。

    35 = 1 :


    「秘密……秘密ですか、私の……」

    ……楓さん……元カレ。居るのかなぁ。いや、居るよなぁ、やっぱ。
    『昔の恋愛の事でも』って、そういうことだよね……
    こんなに綺麗だし可愛い人だもん。そりゃ男のほうがほっとかないだろうし、そもそも俺にどーこう言う権利ないんだけどさ……

    「……あっ」

    俺の知らない、大学生の楓さん、制服を着た楓さん、あるいはもっと昔の楓さんは、どんな人と手を繋いで、この笑顔を向けてきたんだろ。
    あっ、やばい、また目から汗が。

    「プロデューサー、あの」

    我ながら、酔いが回ったと見える。いい加減、気色悪いことになっていた。
    高垣楓をプロデュースするのが、僕の仕事。
    勘違いしちゃいけない。
    彼女が幸せになれれば、それでいいじゃないか、僕がそこにいなくたって。
    だから、楓さんがもっと輝けるように、決して余計なことは考えず――――――

    「実は、その」

    なんですか、耳元で。
    せっかく決心したんですからそんなに近づかないでいただきたく、

    36 = 1 :


    「私、処女です」
    「――――――ごっはあっ!!?」

    嘘だろ。

    「プロデューサー、手応え無さすぎですね」
    「かっ、かえっ、かえっ、かえっ」
    「ふふっ……さあ、次は、何を教えてもらいましょうか♪」

    着替えたばかりのシャツの裾で、酒を盛大に噴き出した口を拭う。
    けんけんとむせて、かろうじて見る涙目の向こう側には、面白げに口元をおさえる25歳児。

    ――――――ああ、くそ。

    やっぱりぼくは、楓さんに勝てない。

    37 = 1 :

    今日の分は以上となります。ありがとうございました。
    続きは明日の朝か、仕事が押さなければ夜となります。
    明日が無理であれば明後日……となります。よろしくお願いいたします。

    どなたか、からかい上手の高垣さんってssを書いてくだんせえ……

    38 :

    素晴らしい

    39 :

    川島や彼も古参の隊士からしばしば先生と呼ばれるから→川島や彼のような古参の隊士はしばしば先生と呼ばれるから

    です。たびたびすいません

    >>38
    ありがとうございます!

    40 :

    そんな秘密教えちゃう楓さん、やばい

    期待

    41 :

    モバつけろよ

    42 :

    ネタかと思ったらガチだった

    45 :

    君の前々前世から僕は、ってことか
    これは期待

    46 :

    皆さん、レスありがとうございます、大変励みになります。
    再開します。

    47 = 1 :

    ◆◆◆◆

    お前様、申し訳ござりませぬ。楓は、お前様ば不幸にしてしまいんした。
    あの故郷の川で、楓はお前様のお情けば、決別するつもりでござんした。楓がお前様のごたる、つまらぬ駄洒落のひとつでも飛ばして上手く笑えておれたなら、きっとお前様も楓はもう大丈夫なのじゃと、笑って見送って下さったことでしょう。
    けれど、お前様の腕の中があんまり温かくて、口惜しゅうなって結局、めそめそと泣いてしまいんした。そのせいで、お前様の哀れみば買うて、修羅の道に引きずり込んでしまいんした。

    もう二度と逢ってはならぬとわかっているのに、逢いたや、恋しやと、思ってしまいんす。

    楓は、弱きおなごでござんす。お前様のごたる、強くはなれぬでやんした。
    どうか、お前様。楓が壊れてしまわぬうちに、甘ったれて何もかんもわからなくなってお前様にすがり付いてしまわぬうちに、血塗れた修羅の道、引き返しあってくんなんし。

    今生の渡世は、楓の涙を拭ってくれたお前様の指の優しさだけで、十分でありんす。

    もし、お情けを下さるのなら、お前様が幸せな天寿を全うされたる後の、来世の縁におすがりさせて下さい。
    いつか、戦もなく、身分の違いもなく、お前様が刀の振り方も、血の匂いも知らぬでも済むような、そったな時代で巡り合うことができましたなら。
    そん時は、頭からっぽにして、日がな一日、お前様のお酌をさせてくんなんし。
    お前様は、来世もあの世も無いと仰りましたけれども、楓はやはり、縁はあると思いたいのです。

    ……それっくらいは夢に見ても、ようございましょう――――――



    「鯉風こったいは、おりやんすか」

    京者にしては颯爽とした美女が、鯉風太夫の膳を運ぶお禿を呼び止めた。

    「ふわあ……みずき天神……おきばりやすー……」
    「おきばりやす。こずえ、鯉風のこったいは、おりやんすか?」
    「こったい……おるー……こったいの……しつー……」

    瑞樹天神は、禿の目線まで膝を屈めて、改めて聞いた。
    天神といえば上から数えて二番目の位、上の番付は太夫のみという位であるから、座敷も知らぬ禿にとっては雲上人である。
    だが、この瑞樹天神は自身に関するこういった格式の序列を気にしない性格であるため、自分から見てどれほど格下である者に対しても変わらずに接した。
    それゆえ、廓の中では彼女を慕う年少の者は多かった。

    「おおきに。お母さんが飴ちゃん買うてきたようやから、瑞樹の姉さんに言われたいうてもらってきんさい」
    「わーい……」

    こったいとは、芸妓同士で太夫を呼ばわる際の敬称であった。

    「鯉風のこったい、よろしおすか」

    す、と隙間を開け、瑞樹天神は鯉風大夫に声をかけた。

    48 = 1 :


    「あら、瑞樹さん。おいでやす」

    琴の稽古をしていた太夫が顔を上げ、笑いかけると、天神は膝行で室に入り、ふすまを閉めた。

    「こったい、お話がありんす。正三位殿のお身請け話、お断りにならはったようどすね」

    挨拶もそこそこに、天神は切り出した。

    「はあ、そうどすね」
    「はあ……じゃあ、ありんせん。どういうことでござんすか。あんないいお話を蹴るなんて」
    「お身請けのお話をお断りする事は、別段、珍しいお話でもない思うけどなあ」
    「そんなこと言うて、こないだの西園寺卿とのご縁談も、お断りにならはったですやろ」
    「はあ、そうどすねえ」
    「そうどすねえ……じゃあ、ありんせん!」

    一見して、なんの気ないやり取りであるが、この世界ではおよそあり得ぬ光景であった。
    まず、下位の天神が太夫の室を呼ばれもせぬのに訪ねていく、という事からしてあり得なかった。廊下でも上位の者とすれ違うときは、下位の者は目を伏せるようにして、決して正面から見てはならなかった。それくらい、芸道の序列というのは厳格なものだったのだ。

    「また、あの新撰組のお人どすか」
    「」ピクッ
    「最初のお座敷の時は三度もお断りをしたらしいですのに、一度逢瀬をしはってからは、なんやえらい仲睦まじい様子やないどすか」
    「は……はて? なんのことやら」
    「こったい、あの方を慕うておられるのですか」
    「………」ピューピュー
    「そっぽ向いて下手な口笛など吹きませんの! 」

    このように気安い関係が許されるのは、禿の頃からの同輩同士であるということ以上に、二人の人柄に依るところが大きい。
    基本的に、番付の上位の者は、下位の者にとって神と同じで、下位の者が上位の者になにかものを言うなど言語道断である。
    上位の遊女が目下のものを虐め殺してしまうことは珍しくも無かったし、それが特段、詮議されるようなことも無かった。

    この時代の日本はとかく、身分と格式であった。

    武士にしてみても、足軽と千石ものの大身旗本は、はっきり言って同じ人間ではなかった。牛や馬と、その主たる人間ほどの隔たりが存在した。
    しかもそれは、本人の意思の及ばざる出自や家柄によってあらかじめ決められていた。
    それでも女性ならば美貌と芸技で成り上がることが出来たかもしれないが、それにしたって、生まれたお家が安泰ならば、このような廓暮らしで苦労をすることもなかった。

    「……みずき姉さまやて、あの川島さま言わはる新選組の方のお座敷では、態度が全然違うやないどすか……」

    ぶうっ、と、少し膨れながら太夫が、ぼそっと呟いたところで、天神はピンと背筋を立て、パンッと柏手を一つ打った。

    49 = 1 :

    「――――かえちゃん」
    「はっ、はい」

    空気が変わって、思わず鯉風太夫もまた、背筋をピンっと伸ばした。

    「ちょっとこっち来てなおりなんし。大事な話をしますえ」
    「み、みずき姉さま?」
    「かえちゃんがわっちを昔と同じようにそう呼ばわるなら、わっちも昔とおんなしようにお話しさせていただきます。」
    「え、えーっと」
    「早う!」
    「はっ、はい!」

    ダン、と天神が強く畳を叩いたら、太夫が小さく跳ねるようにビクリとなり、それからおずおず、天神の前まで膝を進めた。
    元々、天神の方が太夫より3つほど年長であったという事もあるが、それにしたってどちらが格上かわからぬ光景であった。

    「かえちゃんは見棹屋の太夫であんすな」
    「えー……はい」
    「この花街でも当代随一の太夫でござんすな」
    「えー……」
    「そうであんすな!?」
    「は、はい」

    颯爽とした物腰に、この武断整然とした話の進め方は、京女というよりも江戸や関東の武家という気がする。
    加えて、この美貌と気品である。ひょっとしたら瑞樹天神は、御家断絶の憂き目にあった元は武家の息女かもしれなかった。
    正座をして凛と声を張るたたずまいは、まさに武家の姫様さながらである。

    「ほなら、かえちゃんは自分の価値というのんを、きちんとわかっとらなあきまへん」
    「……」
    「かえちゃん。わっちはアンタには、幸せになってほしい。故に、手に入る幸せいうんを、ちゃんとわきまえなあきまへんえ」

    瑞樹天神の顔には、まったく冗談の気はなかった。まったく真剣な顔で、太夫の妖瞳を見据えていた。

    「好きになってしまったら、しゃあない。わかるわ。けどな、新選組のお人いうのんだけはやめとき。恐っとろしい未来しかありえへん」
    「……」
    「あの人らは、元はお百姓かご町人が殆どや。よしんば武士の出でも、足軽かせいぜい貧乏御家人の次男三男で、家督も継げん。帰る場所の無い男どもがお命を的に大金を稼いどるんや」
    「そんなお人では、かえちゃんをきちんと幸せにすることは出来ん。
     また、そんな人がたが命懸けで稼いだ五十両や百両を、花街で湯水の如く使わせるのは佳い女のすることではありんせん。せやからかえちゃんも、最初の逢瀬の時は三度もお断りにならはったんやろ」

    50 = 1 :

    「あの人らは、元はお百姓かご町人が殆どや。よしんば武士の出でも、足軽かせいぜい貧乏御家人の次男三男で、家督も継げん。帰る場所の無い男どもがお命を的に大金を稼いどるんや」
    「そんなお人では、かえちゃんをきちんと幸せにすることは出来ん。
     また、そんな人がたが命懸けで稼いだ五十両や百両を、花街で湯水の如く使わせるのは佳い女のすることではありんせん。せやからかえちゃんも、最初の逢瀬の時は三度もお断りにならはったんやろ」



    「あの人らは、元はお百姓かご町人が殆どや。よしんば武士の出でも、足軽かせいぜい貧乏御家人の次男三男で、家督も継げん。帰る場所の無い男どもがお命を的に大金を稼いどるんや。
     そんなお人ではかえちゃんをきちんと幸せにすることは出来ん。 また、そんな人がたが命懸けで稼いだ五十両や百両を、花街で湯水の如く使わせるのは佳い女のすることではありんせん。
     せやからかえちゃんも、最初の逢瀬の時は三度もお断りにならはったんやろ」


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