私的良スレ書庫
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元スレ志希「それじゃあ、アタシがギフテッドじゃなくなった話でもしよっか」
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――その日から、めまぐるしいくらいに時間は過ぎていった。
オーディションに向けた準備を着々と進めるために、これまで以上にレッスン量が増えた。
泣き言も言わず、アタシはがむしゃらにそれらすべてをこなしていった。
家に帰ったらトレーナーから言われたことをすべて書き出し、くりかえし反復練習をした。
足に血豆が出来るのは珍しくもなかった。ゆっくりと、少しずつでもいい。アタシは前に進もうとしたんだ。
プロデューサーとの会話はあれから確実に少なくなった。
理由はとっても単純で、アタシ自身が彼を避けていたからだった。
車での移動中も、アタシは一言もしゃべらずに窓の外を眺めていたし、打ち合わせでも最低限の言葉以外は声を出さなかった。
あの日、扉越しに泣いた日から、アタシは彼との間に壁をつくった。
きっと、自己防衛のつもりだったんだろうね。アタシはこれ以上彼からの気遣いを受けないようにしたんだ。
もう傷ついてしまわないように、じぶんを守ろうとしたんだ。
あんなプロデューサーでも、それだけされたら、やっぱり分かってしまうんだねー。
彼は彼で、極力アタシを気に掛けるのをやめたんだ。だからもう、誰がどう見てもアタシ達の関係は冷え切っていた。でも、そんなのは、ずっと前からなのかもしれないけどさ。
だけどね、彼は朝のモーニングコールだけはかかさなかったんだよね。あれだけ嫌いな彼の声も、電話越しだったら不思議と素直に「おはよう」って言うことが出来た。もしかすると、彼からの「おはよう」は、アタシにとってあんまり嫌じゃなかったのかもね。
えーっと、そっか。オーディションについてのはなしだったね。
オーディションでは、歌とダンス、それから演技の三つが評価の対象となっていたんだけどね。どれが審査員からいちばん見られるかについては、やっぱり演技の項目にちがいないだろうとアタシは勘ぐっていたの。
演技に関する審査については、すでに台本をプロデューサーから手渡されていた。
その映画には“苦悩”に立ち向かう少女が登場する。
アタシは、この少女を演じることになっていた。
『少女には才能があった。だから、物心がついたころには、勉強だって、スポーツだって、じぶんが興味を示したことは何だってできた。
ただ、まわりからその心を理解されないことに、もがき苦しんでいた。少女には分からなかった。みんなよりも先へ先へと前に進むたびに、みんなから取り残されていく不安感が、どうして積もっていくのかが、分からなかった。
日を重ねるごとに「死んでしまいたい」という感情が増していった。生きることをやめてしまえば、この苦悩から解放されるんじゃないかと考えるようになった。
しかし、ある日、知り合いだった男からひとつのアドバイスを受ける。
「そんなに今の自分が嫌だと言うのなら、いっそ、普通の人間を装えばいいじゃないか」
少女は、男の言葉を聞いた次の日から“普通の人間”を演じるようになった。わざと努力するフリをした。わざと仕事で失敗をした。今までの生き方をすべて捨てて、少女は生涯を終えようと考えた。
もちろん、自分以外の誰かから怒られることも増えた。そのたびに「そんなことは言われなくても分かっています」なんてことは口に出さず、きちんと「すいませんでした」と頭を下げた。
普通の人間になって、三年の月日が経ったころ。少女はボーイフレンドと無事に結婚し、ひとつの家庭を築いた。男は、非の打ちどころのない青年だった。まわりの誰もが、少女のことを「幸せそうだ」と言った。
しかし、それから一年が過ぎて。少女は突如として姿を消した。机の上に「ごめんなさい」という書置きだけを残し、何も言わずどこかへと去っていったのだ。
少女がどこへ行ったのか、どうして消えてしまったのか、取り残された男には知ることさえできなかった』
はじめに台本に目を通したとき、そのストーリーが、まるでアタシのために作られたのかと勘違いして、すごくビックリしたっけ。だって、そう思ってしまうくらい、その女の子がいまのアタシに似ていたんだから。
でもね、女の子とアタシとでは決定的にちがうところがあったんだよね。
えっとね。つまり、その物語に出てくる女の子は“才能を残したまま”普通の人間になって。だけど、アタシは“才能を失って”普通の人間になったの。
たったそれだけのことだけど、アタシにとってはぜんぜん違うように思えたわけ。
そう。この子には、まだ二つの人生が与えられている。
元の自分に戻る道と、今の自分に納得する道が、残っている。
でも、アタシはちがった。あのころのじぶんを、追い求めるしかなかった。あの輝かしい過去に、縋るしかなかった。
そうするしか、なかったんだから。
そう言えば、渡されたストーリーのなかで、ひとつだけ疑問点があったんだけどさ。
どうして、女の子はいちばん最後に“男の子のもとを去る”という選択肢を選んでしまったんだろうね。
考えてもみてよ。幸せに暮らしていたはずの女の子が、なにも言わないで消えてしまったのかってことを。
これはアタシの推理でしかないけど。もしかすると、この子は普通の人として生きるのが嫌になっちゃったのかもしれないね。才能を捨てて、ふつうに生きていくことに嫌気がさして、幸せな生活に飽きてしまって。だから、持ってるものをぜんぶ放り投げちゃったのかなって。
女の子が書置きに残していった「ごめんなさい」という言葉には、過去のじぶんを諦めきれなかった謝罪の意がふくまれているのかな。
だとしたら、アタシはこの子のことを少しだけ理解できた。
だって、ふつーに生きていくためには、この世界はちょっとだけ、辛いことが多すぎたからさ。
ここ1月ほど何かを書ける状態ではなかったので、長らく英気を養っていました。完結に向けてがんばります。
さてさて、ずいぶんと長話をしちゃったね。もう聞くのも疲れちゃった?
人の落ちこぼれていく話なんてさ、そんなの聞いててたのしいものじゃないもんねー。
才能を失って、こんなにも人生がめちゃくちゃになったアタシだったけど。このころには既に“才能消失事件”の答え探しをするヒマも与えられていなかったの。
もちろん、脳裏の片隅にはいつだって、そのことが張り付いてはいたけど。やっぱり手がかりもなしに探すのは無理があった。
アタシはもう半分諦めていたし、悲鳴をあげだした体を引きずって、いろんなことにも溜息を吐いてしまっていた。
ある種、限界を感じていたのかもしれないね。
ここが、じぶんが努力でどうにかすることのできるラインなんだと、そう結論付けていたんだろーね。
でも、不思議だよね。神さまっていうのは、ときとして、そういう人に対して“救済”をしようとするんだから。
なにかを諦めようとした、その一瞬のスキをついてさ。
きっかけは、家で着ていた白衣の裾に、淹れ立てのカモミールティーをこぼしたときのことだった。
寝不足のまま飲もうとしたのが誤りだったんだろうね。テーブルの上に置いたお気に入りのカップを持ち上げようとした矢先、それはするりと手元から滑りおちて、ぱしゃりとたちまちのうちに白い布に染みを作った。
それはオフの日の朝に起きた、ほんの些細な出来事でしかなかった。
けれど、白衣、そして、カモミールティー。この二つに妙な違和感を抱いたアタシは、腕を組んで顔を顰めた。
なにかが頭で引っかかっていた。とても、とても大事なことが。とうの昔に忘れてしまっていた、大事なことが。
両手を握りしめて、意識の全てを頭に集める。
……そうだ。
アタシがはじめて才能消失に気付いた場所、それはどこだっただろう。
白衣を着て、カモミールティーを飲んでいたのは、どこだっただろう。
違和感が、アタシのすべてを壊してしまったのは、どこだっただろう。
「――ラボ?」
ぼそり、と独り言がこぼれ落ちた。
がたり、と椅子から勢いよく立ち上がったアタシはそのまま急いでクローゼットから服を引っ張り出し、それから、厚手の帽子を深くかぶった。
――どうして、もっとはやく気づかなかったんだろう。
朱色のマフラーを首に巻いて、玄関口のノブに手をかける。土曜日の朝にしては慌ただしく、がちゃがちゃと鍵をかけて、ズボンのポケットに無造作にしまい込むと、いてもたってもいられずアタシは走りだした。
――アタシは、今まで、アタシ自身を知らなさすぎたのかもしれない。
あの日、アタシはラボで才能が消えてしまったことに気が付いた。
そしてそのまま、今日までの日を無為に過ごしてしまった。こんなにも近くに答えがあったのに。
もしかすると、あまりにも近すぎて、意識の外にあったのかもしれない。
キョーミのあることなら、どんなことにでも手を出してしまう性格で、ギフテッドだったころのアタシがやりそうなことを。
どうして、それを考えることが出来なかったんだろう。
――アタシが“一ノ瀬志希”を実験台に使ったんだってことを。
つまり、才能消失事件の真相とやらは、こういうことだったの。
アタシっていう人間は、その惚れ惚れする探究心から「一ノ瀬志希から才能を一切取り除いてしまう」ってことを考えてしまったんだよ。
ギフテッドが普通の人間になったら、なんてそんなことを考えて、ついには実現しちゃったんだよ。
もうさ、おかしくて笑っちゃうよね。
だってあんなに苦しくってしかたないような、アタシの世界を丸ごと変えてしまった出来事を作った張本人が、自分自身だったなんてさ。
それじゃあ、アタシは神さまでも誰でもなくって、アタシ自身を憎めばよかったのかな。
そんなこと、できるわけもないのにね。
息を切らしてラボの前までやって来たアタシは、胸に手を置いていちどだけ深呼吸をした。
無理もないけど、扉にはDANGERと書かれた黄色いテープが張り巡らされていたね。
才能消失事件のすぐ後にアタシ自身が起こしたボヤ騒ぎのせいで封鎖されちゃったわけだけれども、合いカギをあらかじめ作っていたアタシにとって、その部屋に忍び込むことは造作もなかった。
がちゃり、という金属音が静かに廊下にひびくと、そろそろと息を潜ませて部屋の中へ足を踏み入れた。
室内には、薬品の入り混じったにおいが立ち込めていた。
おもわず顔を顰めると、そのままぐるりと視線を泳がせた。
目に止まったのは、雑多に積まれた論文の山だった。
アタシはなにかに取りつかれたかのように、そこに駆け寄って、それらすべてをバサバサと床に投げ出した。
お目当てのものは、思いのほか、あっという間に見つかった。
資料の中に隠されていたのは、ピルケースと、一冊の実験ノートだった。
実をいうとね、アタシはラボに向かう途中ひとつの仮説を立てていたの。
一ノ瀬志希のことをいちばん知っているアタシが言うんだから、きっと間違いないんだろうけどさ。
アタシが何らかの形で“才能”を奪い去ったとして、それをそのままにしておくなんてことは、どう考えてもありえないってことなんだよね。
アタシなら絶対「逃げ道を用意するに違いない」って思っていたの。
要は、元のギフテッドに戻るための何らかの方法を残しておくはずだって考えたわけ。
そんなの直感でしかなかったけど、どうしてか間違いだとは感じなかったっけ。
だから、ピルケースと実験ノートを手にした瞬間に、ピンと来たね。これこそがアタシの探し求めていたものだったんだってさ。
それはもう、じぶんの推理が合っていたことにびっくりもしたけど、それ以上にドキドキが鳴りやまないことにアタシはこのとき気が付いていたの。
だってさ。やっとこれで“元のアタシ”にもどれるんだって、心底カンドーしてたんだから。
よかった
落ちぶれて場末の飲み屋で歌うシキにゃんはい居ないんだね
落ちぶれて場末の飲み屋で歌うシキにゃんはい居ないんだね
この文に引き込まれてつい一気読みしてしまった
続き気になるから早くきてー!
続き気になるから早くきてー!
だけどね。家にそれらを持ち帰ってみたアタシは、どういうわけだか、そのときにはもう不安で胸が一杯だったの。
真っ白なベッドの上であぐらをかいて、布団の上に置いたピルケースとノートを見下ろしたまま、アタシはひとつのことを考えていたわけ。
それは、言うなれば、当たり前のことだとは思うけど。それでも考えずにはいられなかった。
「――どうして、アタシはこんなことをしたんだろう」
アタシの疑問はそれにつきた。ただの興味だというならば、それで終わりかもしれないけど。だけどそれだけじゃない、きっと何かの理由があるはずだってアタシはそう思ったね。
それなのにさ、アタシの記憶ってものは誰かに上書きされてしまったかのように、その理由を思い出せないようになっていたんだよ。
もしかすると、その理由が分からないと、もう一度おなじことを繰り返してしまうかもしれないのにさ。
アタシはたぶん怯えていたの。どんどん自分が分からなくなっていくみたいな、そんなただならぬ恐怖を感じていたの。
それから、アタシは実験ノートを手に取った。
すべての真実が、このノートに書いてあるんだっていうことは、おおよそ予想はついたんだけどさ。その日は、どうにもそれを見る気にはなれなかった。
いろんなことが頭に流れ込んできてさ、きっと、頭がいっぱいになっていたんだろうね。
アタシはベッドに体を預けて、そして窓の外を眺めたんだ。
そこには、一匹の蝶々がいたの。冬の日にそんなものがいるわけなんてないんだから、あれは、そう、幻か何かだろうと思ったね。
青と黒が鮮やかなその子の羽には、穴が開いていた。
何度も何度も、蝶は空を目指す。だけど、そのたびに吸い込まれるように地面に落ちていく。
綺麗な蝶だった。とても、綺麗だと思った。
あの蝶のようになれたなら、そう考えながらアタシは目を閉じた。
ひさびさにss読みに来てよかった
フレ鬱の人かな?文章からして
おもしろい
フレ鬱の人かな?文章からして
おもしろい
アタシは部屋のなかだっていうのに、息すらも凍り付くように白く染まっていた。
窓の外を眺めたら、昨日の蝶はもういなくなっていて、ああやっぱりあれは幻覚だったんだって、すこしだけがっかりしたっけ。
それで、気が付いたらスマートフォンの画面が明るく輝いていて、アタシは、はっと目を見開いたね。
『今日の仕事には間に合いそうか』
プロデューサーからのメッセージと共に、アタシは急いで支度を始めた。
その日は遠方の仕事に向かう予定になっていたんだけど、アタシと言えば、不幸なことに家を出るはずの時間に起きてしまったんだよ。
すぐにバタバタと慌ただしくカバンに荷物を詰め込みはじめたアタシは、ふと、実験ノートとピルケースに意識を向けた。
理由もなく、その二つを手に掴んだアタシは、ぼんやりと宙を見つめた。それで数秒ほど考えて、アタシはそれらをカバンのなかに一緒に入れたんだ。
それから、クローゼットから取り出したお気に入りの服に身を包むと、冷蔵庫から取り出したサンドイッチを頬張って、アタシは靴を履いた。
玄関口で踵を合わせている間、ぐるぐると一つのことが頭を巡っていたね。それで家の鍵をかけて走り出したときにはもう、それは色濃く浮かび上がっていたんだ。
――アタシが遅刻するのは、これで何回目だっただろう。
なんて、そんな言葉がさ。
さんざん放置してしまってすいません…。
だいぶ終盤まで来てるので、できたら、この土日で完結できたらなあと思います。
待ってくださった方も、本当にありがとうございます。頑張って書ききります。
だいぶ終盤まで来てるので、できたら、この土日で完結できたらなあと思います。
待ってくださった方も、本当にありがとうございます。頑張って書ききります。
待て言うならいつまでも待つ!けど一ヶ月に一回はきてほしいかな…
現場からの帰り道、アタシとプロデューサーは山道を車で走っていた。
辺りはすっかり暗くなっていて、外はまだ雪が降っていた。あまりにひどい雪でさ、車道には、他の車はひとつも見当たらなかったね。
そうそう。言い忘れていたけど、残念なことに、その日の仕事は“ナシ”になったんだよ。
息を切らしてやって来たアタシに「雪の影響でなくなったんだ」と彼は言ったけれど、アタシは事の真相を理解していた。そうだね、言うなれば、やっぱり彼は嘘をつくのが下手だったってことかな。
そんなことがあったからか、車内では会話がうまれることもなく、ラジオから流れてくる声が、街に押し寄せた寒波について話をしていた。どうにも電波がわるいみたいで、声はときおり掠れたようにくぐもっていたね。
どうしてこうなってしまうんだろうって、そのときはずっとそればっかり考えていたと思う。自分のせいだって、分かっていたのにさ。
それで、しばらく経ったころだったとおもう。プスンという嫌な音と共に車は止まったのは。
すぐに車から降りて気まずそうに顔を顰めた彼は「故障したみたいだ」とアタシに告げた。あいにく、電話も通じないようで、ロードサービスに助けを求めることもできなかった。
「どうするの?」とアタシが尋ねると「朝になったら、考えよう」と彼は答えた。
運が良いと言えるのかはわからないけど、近くにはバス停もあったし、日が昇れば誰か別の人がここを通ってくれるだろうと、つまり、そういうことらしい。
ただ、こんな寒空の下で、朝まで二人で過ごさなければならないことに変わりはなかったけれど。
暖房が消えてしまった車のなかは、凍えてしまうほどに寒かった。アタシは白い息を吐いて、それから、朱色のマフラーに顔を埋めた。
「悪かった、こんなことになって」
ハンドルを手放して、体を椅子に預けたプロデューサーが、ふいにそんなことを言ったものだから、アタシはおもわず彼の方を見た。
「いいよ、そんなの」とアタシが言うと、「そうか」と彼はそれっきり黙ってしまった。
おそろしいくらいに、時間がゆっくりと流れている気がした。アタシは、寒さであたまがどうかしてしまうんじゃないかと思うほどに、身を震わせていた。
人って生き物は不思議なもので、そういう状況に陥ると、その場にいる誰かに無性に話しかけたくなるらしい。現に、アタシは無意識のうちに「あのさ」と口を開いていたのだから。
「……この前渡された台本のストーリー、どう思う?」
どうしてこんなことを、いま、こんな場所で聞いてしまったのか。そんな理由を考える熱さえも、すでにアタシからは奪われていた。とにかく、どんな些細なことだって、なんだっていいから、誰かと話していたかった。擦り切れてしまった心が、そう訴えかけていた。
「そうだな」と彼は呟いた。「どうして、女の子は置手紙を残して去っていったんだろうな」
どうして、と問われて、アタシはなにかを諦めるように声を出した。
「きっと、戻りたかったんだよ。才能のあったころのじぶんに」口を尖らせて、そうこたえた。
じぶんが出した答えに疑問を持つことはなかった。女の子はふつうの人になりきれなかった。だから男のもとを去っていった。アタシはそう思っていた。
「それは、どうだろうな」だけど、アタシの言葉に、彼は首を傾げた。
「俺は、もっと違うことを考えていたよ」
「……ちがうこと?」アタシがそう聞くと彼は話をつづけた。
「たぶん、分かり合えないと思ったからじゃないかな」寒そうに手に息を当てながら、彼は言った。
わけもわからずアタシは「どういう意味?」と尋ねた。
「普通の人になって、それで、本当に好きな人ができて、女の子は幸せだったと思うよ。
だけどさ。それだけじゃあ埋まらない隙間があったんだとすれば、どうだろう」
突き刺さるような彼の瞳がアタシに向けられた。
「どこまで行ったって、ふたりは、普通の人と才能のある人なんだからさ」
「でも」と言いかけて、アタシは口を噤んだ。
もしも、ほんとうにそれが理由だったとすれば、女の子は最後にはどんな気持ちになってしまったのだろう。どんな思いで彼に「ごめんなさい」と告げたのだろう。
アタシには分からなかった。分かりたくもなかった。
「考えていることの全てを分かり合える、そんな人たちがいると俺は思わないけど、だけど、女の子はきっとショックだっただろうな」
彼は眠そうに瞼を擦りながら、口を動かしていた。
「女の子ははじめから普通の人に憧れていた。だから、普通の生活が嫌だと感じて逃げたんじゃない。
女の子は、知ってしまったんだよ。どうあっても、男と自分が理解し合えないことをさ。
普通の人間になるフリをして、以前の自分を捨てて、それでも男のことは分からなかったんじゃないかな。
……たぶんだけどさ。俺はそう思うんだ」
アタシは何も言わずに黙っていた。まるで、それがじぶんに宛てた言葉のように思えて仕方がなかった。
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